◆200308KHK209A1L0614AP
TITLE:  教育改革論議における公共論と愛国心
AUTHOR: 羽山 健一
SOURCE: 大阪教法研ニュース 第209号(2003年8月)
WORDS:  全40字×614行

 

教育改革論議における公共論と愛国心

 

羽 山 健 一

 

はじめに

  中央教育審議会は2003年3月の答申「新しい時代にふさわしい教育基本法と教育振興基本計画の在り方について」のなかで教育基本法改正案の全容を明らかにした。そこでは、教育の目標を、現行法の「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成」から「新しい時代を切り拓く心豊かでたくましい日本人の育成」におくことを提言し、重点を「人格の完成」から、国や経済界の望む「人材の育成」に変更しようとしている。これは、「見直し」という名目で教育基本法の重要な原理を骨ぬきにするものに他ならない。

  答申の中の「新たに規定する理念」として列挙されている事項は、そのほとんどが教育基本法を改正しなくても実施できるものばかりである。とはいえ、改正によって現行の公教育のあり方を大きく変更しようと意図しているものは、「社会の形成に主体的に参画する『公共』の精神、道徳心、自律心の涵養」と、「日本の伝統・文化の尊重、郷土や国を愛する心と国際社会の一員としての意識の涵養」の二つである。このなかで、後者の愛国心教育の導入は、これまでも繰り返し主張されてきたものであるが、前者の「社会の形成に主体的に参画する『公共』の精神」とは何を意味するのであろうか。ここでは、近年、教育改革として主張される「『公共』の精神」の意義、それが主張される背景、そのねらいなどについて、公共論という枠組を用いて考えてみることにする。

 

 

 1 公共論とは

 

  中曽根首相の諮問に応じ1984年に設置された臨時教育審議会は、教育の基本的在り方として「公共の精神」が重視されなければならないとして、次のように述べていた。

 「人間の生命は過去・現在・未来と結ばれており、また、各個人は家庭、学校、地域、国家などの各レベルにおいて複雑な相互依存関係のなかに生きている。個人の尊厳、個性の尊重の考え方の根本にあるものは、この時間・空間という縦・横双方の広がりのなかで、各個人はそれぞれ独自の個性的な存在であるということ、また、個性的な個人が集まって集団の活力を形成しているということである。」(1985年6月 第一次答申)
 「近代工業文明が家庭、地域社会の崩壊をもたらしたため、バラバラに原子(アトム)化した個人が都市に集積して大衆社会化状況を現出し、経済的、政治的、文化的な選択の自由の拡大に伴い価値意識の多様化・相対化が進展し、伝統的な各種の社会規範が権威を失墜したこと等によって、社会の統合を維持してきた社会的求心力の衰弱、社会的遠心力の増大が同時進行し、この両者の不均衡を処理する適切な方法を見失ったままの状況にある。」(1986年1月 審議経過の概要・その3)
 「個々人は、一人で存在するものではなく、国家社会の形成者としての責任を果たす自覚が求められる。このためには、『公共の精神』が強調されなければならず、公共のために尽くす心、社会奉仕の心など、そして社会規範や法秩序を尊重する精神の涵養が重要である。」(1987年8月 最終答申)

  ここに述べられていることを整理すると次のようになる。@人間は本来、社会的存在であるが、A近年、共同体が崩壊し人間はバラバラな個人にアトム化した、Bその結果、価値観が多様化・相対化して伝統的な社会規範が力を失い、社会の統合力が弱まった。Cしたがって、教育において、国家・社会の形成者としての責任感、公共の精神の涵養が重視されなければならない。

  本稿ではこうした認識にもとづいて、公共の利益を図る心、公共に尽くす精神を重視する立場を「公共論」と呼ぶことにする。これまで、公共論は道徳教育の分野で重要な位置を占めていたが [1] 、それがこの答申では、教育全般における基本的原理として格上げされたように考えられる。

 

 1−1 個と公の再定義

 

  最近公表された教育改革に関わる各種の答申や提言において、その多くで公共論が展開されている。そのいくつかを次にみていくことにする。

@ 21世紀日本の構想懇談会「日本のフロンティアは日本の中にある」(2000年1月)

  小渕首相の私的機関である同懇談会は、21世紀を拓くにあたって、日本および日本人の潜在力を引き出すことが最優先の課題であり、そのための変革の核心として次の二つを提示した。

 「一つは、国民が国家と関わる方法とシステムを変えることである。すなわち、国民が政府に負託し、政府が国民から負託された関係を、あくまでも国民が主体となって担う新たなガバナンス(協治)として確立することである。日本は戦後、民主主義を社会の中に定着させてきたが、形の上では変わったものの、中身が変わらなかった部分もある。中でも『上から下へ』、あるいは『官から民へ』という一方通行の意思伝達、権力誇示の回路と組織論は習性のように残った。これを『下』と『上』、または『民』と『官』の緊張感のある契約関係、より対等な関係へと切り替えるということである。政府は国民の代理人である、という意識を国民はもっと持たなければならない。」

 「もう一つは、市民社会における個と公との関係を再定義し、再構築することである。それにはまず、個を確立することである。自由で、自立し、責任感のあるしっかりとした個であり、同時に他者を人間的共感によって抱擁する広がりのある個を解き放つ。そうしたたくましく、しなやかな個が自らの意志で公的な場に参画し、それを押し広げることで、躍動的な公を作り上げていく。このようにして育つ公は、個に対してより多様な選択と機会を与えるだろう。そうしてこそ、より果敢にリスクを取り、先駆的な挑戦に挑み、より創造的で、想像力のある、多様で活力のある個人と社会も登場する。その土台の上にそれを促すための報酬制度や、失敗したときの安全ネットの制度を足場として構築することを考えるべきだろう。」

  ここでは、国家の将来像を描こうとするとき、主体はあくまで個人であり、個をしっかりと確立し個性を備えた個が「自由で自発的な活動を繰り広げ、社会に参画し、より成熟したガバナンス(協治)を築きあげていくと、そこには新しい公が創出されてくる。」という。そして、ここでいう公は、「お上」によって一方的に決められる従来の「公共」や「公益」と称するものではなく、それは、個人が力を合わせて共に生み出すものであるという意味で、「新たな公」であると説明されている。

  同懇談会の構想のうち教育政策に関する検討を継承したものが、森首相の私的諮問を受けた教育改革国民会議であるが、そこでは、個の確立を前提とした社会の形成という視点は継承されていない。

A 日本青年会議所 「『愛国』のすすめ」(2002年) [2]

  この提言では、「個」の確立が「公」の確立に繋がるとしながらも、素晴らしい「公」が素晴らしい「個」を育むのだから、場としての枠組みである「公」が重要であることを強調する。そのうえで、「公」を愛するような教育、「公」に役立つような人間になるような教育を提唱している。次の抜粋は、「個と公の調和のために」と題する部分である。

 「個人の尊重は、個人を生み、育て、支えている家庭、地域社会、郷土、国家、そして、その歴史と伝統を尊重することでなければなりません。」
 「『個』の確立においては、時間的なつながりの縦軸と空間的なひろがりである横軸の交差する地点に、『個』の存在があるということを確認する必要があります。」
 「『個』はそれだけで確立できるものではなく、時間的・空間的な『公』の縦横軸の中にその存在を置いてみたとき始めて『個』は輝き、その価値を見出すことができるのではないでしょうか。そしてその確立された『個』の集合体である『公』も輝いていくのではないかと考えます。」
 「ところで、自分の住む地域はどんな地域になるべきですか。自分の住む日本は、どんな国になるべきですか。それを『公』に属する個人個人の共通目標にしないと勝手な個が各々の価値観だけで、『素晴らしい・・・』と言っているだけになってしまうのではないでしょうか。」

B 中央教育審議会「青少年の奉仕活動・体験活動の推進方策等について」
  (2002年7月29日)

  この答申は、青少年に奉仕活動の機会を充分に与えることによって、社会に役立つ活動に主体的に取り組む人間の育成をめざしている。この答申において奉仕活動とは、「個人や団体の地域社会におけるボランティア活動やNPO活動など、利潤追求を目的としない、様々な社会問題の解決に貢献するための活動」のことであり、これを社会全体として推進する必要があるとしている。そして、「このような活動は、個人が社会の一員であることを自覚し、互いに連帯して個人がより良く生き、より良い社会を創る」という意義をもつから、奉仕活動は、いわば「新たな『公共』を創り出すことに寄与する活動」として評価されるとしている。つまりここで言う、「新たな『公共』のための活動」というのは、行政作用でもない、企業の営利活動でもない、個人や団体の社会貢献活動のことである。したがって答申中に頻繁に使われている「新たな『公共』」という言葉は、明確な定義が施されていないが、そのような活動によって形成される社会、というほどの意味であろう。

C 経済同友会・教育基本法を考える会「教育基本法改正に関する意見書」
  (2002年12月13日)

  この意見書は、教育の目的を「次代を生きる日本人」・「社会をつくる個人」の育成にあるとし、後者の目的について次のように述べている。

 「教育を通じて知識、技術を身につけ、自らの人格を高めることは、個人に付与された重要な権利である。一方、個人は家庭や社会、国との関わりなくして生きることはできないし、教育には将来の社会、国を形成するメンバーを育成するという大きな目標がある。よって、教育を通じて、個人と社会、国との関係を自覚した公共心ある個人を育成することは、健全なシビル・ソサエティの維持・発展のためにも不可欠であると考える。」

D 中央教育審議会「新しい時代にふさわしい教育基本法と教育振興基本計画の
  在り方について」(2003年3月20日)

  この答申は、個人の存在について、「人は、一人だけで独立して存在できるものではなく、個人が集まり『公共』を形づくることによって生きていくことができるものである」と述べるとともに、民主主義の原理からも公共性を導き出している。次の引用は、答申が「21世紀の教育が目指すもの」の一つとしてあげた「C新しい『公共』を創造し、21世紀の国家・社会の形成に主体的に参画する日本人の育成」の説明部分である。

 「自分たちの力でより良い国づくり、社会づくりに取り組むことは、民主主義社会における国民の責務である。国家や社会の在り方は、その構成員である国民の意思によってより良いものに変わり得るものである。しかしながら、これまで日本人は、ややもすると国や社会は誰かがつくってくれるものとの意識が強かった。これからは、国や社会の問題を自分自身の問題として考え、そのために積極的に行動するという『公共心』を重視する必要がある。」

  それぞれの提言や答申の述べる公共論は、表現が異なり重点も違うので、一致した主張であるとはいいがたいが、本稿ではひとまず公共論と呼んでおくことにする。ただし、いずれの論調も、社会や国家が危機的状態にあるという現状認識を前提としていることは共通している。その危機というのは、個人が社会や国家の将来をかえりみず自分だけの利益を追求し、社会規範を軽視し、さらに、社会正義が失われモラルが低下しているというものである。では次に、公共論の前提となる危機感の背景について考えてみる。

 

 1−2 公共論の背景

 

(1)いわゆる「戦後教育の失敗」

  教育改革国民会議の委員であった梶田叡一氏によると、戦後の教育改革の原理は、次の四点にまとめられるという [2] 。すなわち、@軍国主義から平和主義へ、A全体主義から個人主義へ、B日本主義から国際主義へ、C国家神道体制から社会の非宗教化へ、の四点である。梶田氏は、これらの教育改革の原理を評価するとしながらも、それぞれが、@独善的な一国平和主義、A欲望追求を全面肯定する自己中心的な「個人主義」、B日本の伝統文化の軽視、C宗教の蔑視・人間の宗教的本性の無理解、を生み出し、それが現在噴出している様々な教育問題の遠因となっていると指摘する。

  ここにあるのは、戦後教育が社会を歪めたという認識である。公共論のなかにも、これと同様な認識を前提としているものが多くある。すなわち、戦後の教育が個人主義を重視するあまり「公」をつくり損ね、その結果、自由の理念が単なる恣意とはき違えられて、ひたすら甘えと無責任を生みだし、他人の迷惑を顧みず、自分勝手を押し通すわがままが野放しにされるようになった。そして、大人も子どもも、価値の多様化のもとで、公共心、道徳心、規範意識を失っていき、援助交際、凶悪犯罪、いじめ、不登校、ひきこもりなどの諸問題が発生していると考えるのである。

  しかし、現代の諸問題の原因を教育の失敗に求めることは一面的にすぎる。むしろ、戦後の経済成長政策や新自由主義政策の結果、家族・地域社会などの共同体が崩壊し、バラバラになった個人が互いに競争する個人主義的風潮を生み出したという側面のほうがより決定的である。つまりは「経済の失敗」の責任を「教育の失敗」に転嫁しようとしているのである。とりわけ、近年の新自由主義的政策は社会の統合性を破壊し、社会的危機を深刻化させることが明白で、その後始末を教育に押し付けようとする意図が感じられる。

(2)社会の階層化

  規制緩和、民営化などを伴う新自由主義の経済政策の進展により、所得格差が拡大しそれが固定化して、いわゆる社会の階層化が顕著になった。かつての日本では高い学歴を身つければ労働者家庭の子どもでもエリートサラリーマンになれるという「一億総中流」意識がみられ、現に階層間移動も広範に存在した。その平等意識により社会や国家の一体感が保たれていたのである。ところが現在では、生まれによる格差は縮まらず、上層階層出身者でない限り上層の職種に就きにくくなっている。佐藤俊樹氏はこの変化を「努力すればナントカなる」社会から「努力してもしかたがない」社会への移行と表現している [3] 。そしてこの変化は、すでに80年代後半から始まっており、現在、その変化はほぼ完了している。次に迎えるのは「努力する気になれない」社会であると警告する。このような連帯感や求心力を失った社会では、従来では「想像すらできなかった、とんでもない事件や事故がこれから起こりつづけるだろう」と予測している。

  2001年6月に起きた大阪教育大付属池田小学校事件は、階層化社会の問題を思い起こさせる「とんでもない事件」であった。これは、無抵抗な多数の児童を殺害するという理不尽な犯行である。被告人が具体的な対象として、池田小学校を選んだのは、同校が、裕福な家庭で育てられた優秀な子どもが通う、いわゆるエリート校であり、被告人自身が、かつてあこがれ、ねたましくも思っていたからであるとされている(論告求刑 2003年5月22日)。被告人は、公判のなかでも「世の中のやつは全部敵や」、「今まで、さんざん不愉快な思いをさせられて生きてきた」、「しょうもない貧乏たれの人生やったら、今回のパターンの方がよかった」 [4] などと発言し社会への憎しみをあらわにした。

  そもそも犯行の原因は、明らかに被告人自身の歪んだ考えや人格に起因するものであるが、弁護側、検察側ともに、犯行の動機について、被告人が社会や世間に対して根強い不信感と不平等感を抱いて、それがエリートに対する攻撃となって爆発した、という説明をしている。被告人のような人間を生み出した社会的背景には階層化の問題が関わっているように思えてならないのである。

(3)民主主義の危機

  政治の金権腐敗が進行し民主主義が利益誘導型になったという状況は指弾されるようになって久しい。しかし、利益誘導型の民主主義も、そこで国民の利益をめぐって公論が戦わされているなら、一応、それは民主主義の理念を保っているといえる。むしろ、現代における民主主義の危機は、人々が私的領域に閉じ込もってしまい、政治的関心をもたず公的領域にそのエネルギーを向けないことであろう。この危機は、「政治からの逃避、論争に対する食傷、主張をめぐる信念のなさ、論争の結果に対する不信、論争に加わる人々への軽蔑」などによって特徴づけられる [5] 。近年の国政選挙などにおける投票率の低下、強力なリーダーを求める傾向なども、この危機の具体的な現れとみることができる。こうした民主主義の存立の危機に対して、民主主義を支える主権者の育成、社会の形成者としての主体性を育てることの重要性は、公共論を待つまでもなく、強く認識されている。

 

 

 2 公共論と共同体主義

 

  先にみた公共論は論者により多少のバリエーションがあるものの、その根底で次に述べる共同体主義と結びついていると考えられる。ここでは、共同体主義の理論をみていくことによって、先の答申等で断片的にみられた公共論の全体的特質を推測してみたい。

 

 2−1 共同体主義の政治哲学

 

  1980年代の英米圏において、自由主義ないし自由尊重主義(リバータリアニズム)と共同体主義(コミュニタリアニズム)の間で政治哲学上の大論争が行われた。これは、近現代の自由主義に対する共同体主義の存在論的、道徳論的批判というかたちで展開された [6] 。ここでは、両者の論争を本格的に論じる用意はないので、その概要を整理するにとどめる。

(1)個人存在のあり方

  自由主義の哲学は、個人は他者との関係に先立って存在し、国家は契約によって構成されたものと捉える。個人は社会から独立して、それ自身として自分自身の所有者であり、自分自身の意志にしたがって善を選択し生きていくものとした。それゆえに個人は国家でも干渉できない絶対の自由権を持つべきものとした。それは「他人に危害が及ばないかぎり行動の自由に干渉を受けない」とするJ・S・ミルの自由論に顕著に現れている。

  これに対し共同体主義は、それはあまりにも個人主義的であり、時には利己主義的であると批判する。自由主義は、人格の完成目標や万人の持つべき美徳といったものを見失い、「立派な人格を身につけように努力する」という文化を破壊してしまう。そもそも、共同体での生活という分脈から独立した個人などは存在しない。すべての個人は一定の社会関係のうちに生まれ、そこで育ち、人格形成をおこない、目的を付与されつつ生きているのであり、したがってまた、この分脈から離れて無条件に成り立つ個人の権利などというものも存在しない。このようにして共同体主義者は、自由主義のとらえた自我を「負荷なき自我」「遊離せる自我」と呼んで批判し、自我をふたたび社会関係のうちに埋め込み、状況化して理解しようとする。

(2)個人の価値観

  自由主義の社会は、その社会自身の目的をもたず、また、人々がいかなる目的のために生きるのかを指示しない。いかなる価値を選択するかは、人々の自由である。社会が究極的価値を設定するとき、特定の価値を他人に押し付け、他人の自由を奪うことになるからである。どう生きるかは自分が決め、社会は私的な生活の規律にまで口を挟まない。問われているのは、「生きることの多様性」であるとする。

  これに対し共同体主義においては、人間は最初からなんらかの言語共同体のうちに存在しているのであり、しかも、人間は自己解釈的で物語的存在であり、過去、現在、未来をみずからの意識のうちに統一しつつ、解釈と会話を重ねつつ生きていると考える。つまり、共同体こそ、「何が価値があり、善であり、為すに値するか」決定しうる地平を提供し得るのである。まさにこの共同体において、個人はアイデンティティを獲得し得るのであり、他者との関係のなかで自分の位置を自覚し、自分が何を為すべきであり何を為すべきでないかを自覚していく。したがって、善はたんに主観の問題であるにとどまらず、一定の客観性を帯びるにいたる。このような善の観念は「共通善(common good)」という言葉によってあらわされる。

(3)自由の制限

  自由主義は、個々人の自由権というものを、国家や共同体から離れて、また、他者の承認意識とは無関係に、また、無条件に成り立つものと考える。自由主義者は、「共同体の善」や「共同体の利益」を根拠にして、個人の自由を制限することは、危険な全体主義のやり方と同じであると批判する。

  これに対し、共同体主義は、共同体とは無関係に成り立つ個人の権利などというものは存在しないと考える。J・S・ミルは、個人の生活を、「自分自身にのみ関係する部分」と「他人に関係する部分」とに区別し、このうち前者は個人の自由権が絶対化される領域であるとした。しかし、すべての人間はつねに一定の社会関係のうちに存在し、相互依存の体系のうちに生きているから、この二つの部分の区別は相対的なものにすぎず、両部分における個人の権利はいづれも共同体との関係において成り立ち得るものである。したがって、たとえば環境保護のように、国民のあいだに共通の価値観が承認されているとき、その価値観(共通善)に照らし、「共同体のために」という観点から、ある種の自由の制限をおこなうことも不当なことではないと考える。

  以上みてきたように、共同体主義の個人存在についての認識、自由主義に対する批判的態度は、教育改革論議にみる公共論と驚くほど共通していることが確認できたと思う。

 

 2−2 共同体主義とナショナリズム

 

  共同体主義は、共同体での生活から自由な独立した個人などあり得ないと考える。そして、共同体は家族や地域社会だけではなく、民族や国家の共同体をもその範囲に含んでいる。そうであれば、国家という共同体と無縁の個人もあり得ないから、国家があらゆる価値を決定する地平を提供するものであり、個人の生きる意味も国家によって規定されるとする考え方に到達する。つまり、共同体主義は、民族や国家の歴史・伝統といった国家的共同性を強調することによって、容易に国家至上主義ないしナショナリズムに結びついてしまうのである。

  こうした共同体主義によれば、国家という共同体は歴史や伝統を担っているから、個人はその国家が作る歴史を共有する主体として、その歴史を創造する共同事業に積極的に参画する心構えを持つべきだということになる。個人が国家に絶対的な価値を認め、国家への帰属心、国家と一体感を抱き、国家の発展に貢献しようとする心性こそ、国家への愛着すなわち愛国心に他ならない。

  もともと、共同体主義の主張は社会の全域へと射程を広げていく可能性を秘めている。共同体主義が家族や地域社会という「小さな共同体レベルに留まっているあいだは無害であるが、いつ民族や国家という大きな共同体に横すべりしていくか知れない」。そして、「小さな共同体への愛着は住民の自治意識を涵養し草の根の民主主義を育てるが、一歩間違えば偏狭なナショナリズムを培養する温床ともなる」 [5]

  このように共同体主義は大きな過ちを犯しがちであり、共同体主義が民族や国家の歴史や伝統と結びつくとき、「全体主義の過誤から自由であることは絶対にできない」という指摘もある [7] 。共同体の共通の価値観に賛同しないものを排除することになるからである。

 

 2−3 公共論とナショナリズム

 

  以上の共同体主義の危険性を踏まえながら、あらためて、教育改革論議における公共論を見ていくことにする。

  戦後の日本人には、伝統や文化を尊重し国を愛する意識が希薄であるのは、紛れもない事実である。その日本人に愛国心を持たせるようにするための説明原理となるのが公共論の思想である。しかし、私たちは、日本の歴史や伝統や文化の継承者だという自覚にもとづいて、日本という国家の一員となっているわけではない。とくに、日本の歴史は全面的に是認できるようなものではない。だからこそ、学校教育を用いて愛国心の教え込みを可能とするための教育改革がもくろまれているのである。

  まず、中教審答申(2003年)の主張する「公共」の範囲がどこまでを射程に入れているか、次の記述から明かである。すなわち、「自分の能力や時間を他人や地域、社会のために役立てようとする自発的な活動への参加意識を高めつつ、自らが国づくり、社会づくりの主体であるという自覚と行動力、社会正義を行うために必要な勇気、『公共』の精神、社会規範を尊重する意識や態度などを育成していく必要がある。」という記述である。ここでは「公共」の範囲が、他人、地域、社会という小さな共同体レベルから、何の説明もなく「国」という大きな共同体レベルに拡大されている [8] 。こうして、同答申は、公共の精神として「国づくりの主体であるという自覚」を導き出しているのである。

  同答申はさらにつづけて、次のように愛国心を導き出している。すなわち、「自らの国や地域の伝統・文化についての理解を深め、尊重する態度を身に付けることにより、人間としての教養の基盤を培い、日本人であることの自覚や、郷土や国を愛し、誇りに思う心をはぐくむことが重要である。」と述べる。つまり、人間としての教養の基盤は、日本の伝統や文化を理解し尊重するところにあるのであって、換言すれば、個人のアイデンティティは日本国という共同体を基盤にして獲得されると考えられている。そして最終的に、日本人としての自覚をもって、日本国への帰属心、その将来を担おうとする国家との一体感、すなわち愛国心を育成しようとしているのである。

  しかしながら、先にみたように共同体主義が国家に接近するのは危険であり、公共論の場合も同様である。同答申自身もそのことを意識して、「なお、国を愛する心を大切にすることや我が国の伝統・文化を理解し尊重することが、国家至上主義的考え方や全体主義的なものになってはならないことは言うまでもない。」と述べているが、全体主義に向かうことが必然であることを認識した上で、このように述べるのはいかにも白々しい。

  もともと、日本の道徳教育政策は公共論から出発したものではなく、最初から一貫して唱えられていたのは、愛国心教育である。したがって、最近の公共論の主張は、愛国心教育の論理的補強のために行われているとみるべきであろう。つまり、近年の教育改革論議においては、公共論を新たな軸としてナショナリズムを前面に押し出してきたともいえよう。

 

 

 3 公共論と戦争

 

  公共論は国家的共同性と結びつくことによってナショナリズムに陥る。そしてついには、国家による戦争を正当化する理論にもなり得る。戦争についての言及は、さすがに前述の教育改革論議のなかで顔を出すことはない。そこで次には、公共論から戦争を導き出すナショナリズムの言説をみていく。

 

 3−1 小林よしのり『戦争論』

 

  「戦争に行きますか?それとも日本人やめますか?」というキャッチコピーで有名な、小林よしのり氏の『戦争論』 [9] が、若い人たちを中心にたいへんよく読まれており、この夏、『戦争論PART3』を出版した。小林氏は『戦争論』のなかで、戦後日本の共同性が崩壊し、道徳心や公共性が失われ、「エゴだけの個人」が「大繁殖」してしまったという問題提起を行っている。

 戦後日本が「国家」を否定し「公」の基準を見つけられぬままに、あらゆる共同体を否定して個人主義に向かっていった帰結が、大人から子供までの徹底した「公共性」の喪失だ! 
 学校は公共性を学ぶのに大事な場だが、教師がそのための適切な「制約」「規制」の仕方をできずに、ただ子供の人権と言いながら「自由」に放任するのみ。・・・「公」の制約なき自由な「個」が自己決定してムチャクチャ
 共同体が崩壊し、そこから自由になった個は他者も神も見ていないから、基本的には人が見てなきゃ何やったっていい、とりあえずの価値基準はこうだ、「他人に迷惑かけなきゃ何やったっていいでしょ」
  共同体が壊れかけ、なおかつ「自由」を必要以上に善とし、欲望を解放することが肯定される社会では、「理性」はいつもぐらつきがちであり、暴力は飼い慣らされぬままに放出のチャンスをうかがっている。

  小林氏は、少年犯罪や援助交際、オウム事件や官僚の汚職、企業倫理の喪失など、近年の社会病理現象を惹起している根源的な原因が「公」意識の喪失にあるとみている。そこで、日本人が、共同体から切り離された「浮遊する個」となり、平和ボケのなかで「公」意識を喪失してしまったことの危機感を強調している。そして、個と公の関係について、個と公は対立するものではなく、公が個を支えているのだから、「私を滅し制限し、公を優先しなければ」ならないと説く。そのうえで、「我々の持つ公共心がどのくらいの範囲まで適用するべきと考えているかと言えば、やっぱり日本国内だろう。『公』とは『国』のことなのだ」と共同体の範囲を断定する。かくして、個人はひたすら国家に奉仕すべき存在ということにされてしまう。そして結論として、「普通、自分の国は自分で守るべきなのだが、わしが『祖国を守るのは市民』と言ってみると、これだけで今の日本人は恐怖で顔をひきつらせる。しかし、世界の国からしてみれば、そんなことは普通の感覚なのだ。」と述べ、個人が国家の一員として祖国を防衛する責任を負っていると主張する。

  ところで、なぜ、『戦争論』が若者に読まれるのであろうか。まず、若者たちにも日本社会の病理現象に危機感を感じ、またモラルの低下やエゴイズムの行き過ぎにも疑問を感じる層が広く存在していることがあげられる。そして、この層の若者たちは、共同性を失った個人が「浮遊する個」、根なし草的な存在になってしまったという認識を共有しているし、また価値観が多様化し絶対的な価値観が見えなくなっているなかで、信じるに足る確実なものを持てないという空虚感も感じているであろう。その彼らが共同性への渇望、何らかの集団への帰属を求めていることはまちがいない。そのような彼らに、小林氏の主張する公共論、すなわち「共同性を実感できなくなり、公共性を失った社会が混迷している。よって共同性を取り戻さなければならない。」という説明は分かりやすく、素直に伝わったと考えられる。

  もう一つ、『戦争論』が若者に読まれる理由は、天皇が神として描かれていないことである。戦前の天皇は記紀の神話に基づいて「現人神」として奉られ、臣民を統合する中心となり、侵略戦争を押し進めていった。ところが、現代の若者は天皇を神と信じるほど単純ではないし、天皇の戦争責任についても否定しがたいものと感じている。現代の若者にとって天皇は日本国の象徴なのであり、神権天皇制には違和感を抱く。『戦争論』のなかで神権天皇制を主張しないことが、若者に新鮮な中立的なイメージを与えて、信頼性を高めたといえる。そしてこのことこそが、天皇の神性を国民統合の中心に据えようとする保守的ナショナリズムとの大きな相違点である。

 

 3−2 公共心としての「国を守る精神」

 

  『戦争論』にもみられたように、公共論が国家の公共性と結びつくとき、国家防衛のための戦争を正当化する理論となり得る。公共のために尽くす心を重視する公共論は、その公共を防衛する精神をも重視するようになる。たとえば、西部邁氏は、その著書『新しい公民教科書』のなかで、「人は、他人とともに共同社会をつくっている限り、『私』の利益を追求する場合でも、その前提として、社会のルールを守り、社会生活を改善し、社会を外敵から守るという課題を引き受けなければならない。」 [10] と述べている。文言上は「社会を外敵から守る」と、ぼかした表現を用いているが、端的にいえば、国民には国家防衛の義務があると説明しているのである。

  戦争によって悲惨な被害を受けるのは常に国民であるから、民主主義によって戦争は回避されると考えがちである。これまで、平和と民主主義は同じ類に属する概念として使用されてきた経緯もある。しかし、公共論はこの民主主義を巻き込みながら、共同体防衛のための戦争を肯定してゆく。すなわち、自分たちの社会を自分達で作り、よりよい社会を作ろうと努力することは民主主義における国民の責務であり、ときには、命を賭けて社会のためにつくすことも国民の責務であるとみなされる。民主主義は、こうした自覚をもった国民により維持されると考えられている。西部氏は先の『新しい公民教科書』の「民主主義の基礎」の項目で、「人々が自分の権利だけを主張していたのでは民主主義は成り立たない。民主主義は、法を守り、社会を守り、他人の権利も自分の権利と同じように守り抜くという強い義務感をもった人々がいて初めて実現される。つまり、『私』の事がらよりも『公』の事がらを優先させる公民がいて初めて実現されるのである。」と述べ、また、小林氏は『戦争論』のなかで「祖国のために死ぬ覚悟のない現代の人々など”私民”にすぎない。政治に参加する資格がないのだ。」と言いきっている。

 

 3−3 命を賭けて守るべきもの

 

  人間は「ただ生きるということではなく、善く生きるということ」を大切にしなければならない、というのはソクラテスの言葉である。おそらくは、この言葉を念頭において西部氏は、「生きること」つまり生命は「よく生きる」ための手段でしかなく、「生命という手段を使って、いかなる人生の目的を目指すか。そういう生き方に無関心でいられないのが人間の本性なのだ」 [11] と考え、生命を至上の価値であるかのようにいうのはまちがいであるとする。そして、人生の目的のために生命をすててかかるということも起こり得るのであり、「その極端な場合−戦争がまさにそれに当たる」としている。つまり、戦争には人間が生命を捨てるに値するものがあるというのである。したがって、そのような場合にまで絶対平和を主張する者は、愚かな臆病者であると非難する。

  家族と市民社会とを統合した最高の共同体として国家を位置づけるヘーゲルは、国家に自己の生命を捧げることこそ、人間の本来的な生き方であるとして次のように述べた。

 「自分の祖国、自分の国家という理念が、そのためにこそ自分がはたらき、それによってこそ自分が動かされる、眼にこそ見えぬ、気高いものであった。これこそが、自分にとってこの世界での最終目的、いや、自分の世界の最終目的であった。」 [12]

  つまり、共和国には、「人間がそのために生き、そのために死んでもよいと思うような、普遍的な理念」が宿っていると考えるのである。

  復古的ナショナリストの福田恆存は、人間には命に替えて守るに値するものがなくては、生の喜びすらなく、「命に替えても守りたいもの、あるいは守るに値するものと言えば、それは各々の民族の歴史のうちにある固有の生き方であり、そこから生じた文化的価値でありませう。」 [13] と述べ、戦前の用語を用いるなら、「国体」こそが命に替えても守るべきものであるとし、「お国のために死ぬ」ことの美徳を讃えている。

 以上みてきたように、「国家が個人を生かし、個人に生きる意味を与える」という共同体主義の倫理は、生き甲斐や普遍的価値を求める人間の心理と相俟って、「国家を守るために命を捧げる」という崇高な目的に個人を駆り立てる≠ェて若者はもっと真面目になり、すべての人の心のなかに、愛国心が宿ることとなるであろう」 [15]

  儒教の言葉に「小人閑(間)居して不善を為す」とあるように、若者が何もすることがなく暇でいると、私利私欲の追求に目を奪われ善良な精神を忘れるから、軍隊に入れるべきであるとするのである。ここには、若者は権利を謳歌するだけでなく、兵役の義務も平等に負担するべきであるとする共和主義の思想が背景にある。

  仮に、戦争において愛や勇気が試され、数々の自己犠牲の感動が生まれることがあるとしても、そのことから直ちに戦争そのものを高貴な出来事として美化することは短絡的すぎると考えられる。また、国民の精神を鍛え堕落させないようにするために戦争を行うべきであるという主張も、粗雑な理屈としか言いようがない。

 

 

 4 公共論における教育の特徴

 

 

 4−1 個人の育成と公民の育成

 

  現行の教育基本法は、教育の目的を「人格の完成」と「平和的な国家と社会の形成者」を育成することにおいている。いわば、個人の育成と公民の育成という直ちに調和しそうもないこの両者のバランスを図ってきたといえる [16] 。学校教育の目的が、個人の育成か公民の育成かという問題は、前述の自由主義と共同体主義の教育観における対立と対応させて捉えることができる。

  まず、自由主義における学校教育の目的は、子どもが人格的に独立した個人となって、自分で価値判断をして、自らの決定した目標を達成することが効果的にできるようにすることである。ここでは、学校教育は国家ないし政府の権力の及ばない私的領域の延長であると位置づけられ、国家が教育内容に介入することを認めない。

  これに対し、共同体主義における学校教育の目的は、子どもが善き公民となって、社会の担い手として公共の課題を自覚し、その発展に貢献できるようにすることである。ここでは、学校教育は、共同体の存続のために共同体の価値観を次世代に教え込む作用であり、公的領域に位置づけられえる。したがって、国家が価値の教え込みのために、教育内容を決定することは正当なこととなる。

  ただし、このように分類するとしても、学校教育が完全に価値中立的であることは不可能であり、価値観の教え込みを完全に排除した教育はあり得ない。つまり、純粋な意味で自由主義に立脚する学校教育は実現され難いのである。したがって、上の二つの教育観は理念型としての対立軸であるといえる。

  今時の教育改革論議における公共論は、基本的に共同体主義の政治哲学に立脚するものである。したがって公共論は、個人の育成を目指す教育から公民の育成を目指す教育の側に大きく軸足を移そうとする教育改革をねらっているといえる。

  公共論は、公民を育成する教育を重視するため、価値観の強制も当然のこととする。たとえば、21世紀日本の構想懇談会は、教育における国家の役割を、「統治行為としての教育」と、「サービスとしての教育」の二つに峻別したうえで、「統治行為としての教育」は国民を統合し社会の安寧を維持するために、国民に対して「義務として強制する教育」であり、「最小限のものとして厳正かつ強力に行う」ことを強調している。また、中教審答申(2003年)は、教育基本法に新たに規定するべき理念として、公共の精神、道徳心の涵養、日本の伝統・文化の尊重、郷土や国を愛する心の涵養をあげている。さらに、日本青年会議書の教育基本法改正案には、教育の義務として「国民としての生活の仕方や倫理観・道徳心・自立性を養い、日本人としての誇りを持たせ、国への忠誠心や社会への公共心を養」うことを明記すべきものとしている。これらは、いずれも価値観に関わる教育内容であり、それらを教え込むことを推進しようとしているのである。

  公共論が価値観の強制を教育本来の機能とする結果、教育行政が教育内容を決定・編集することは当然の帰結となる。中教審答申(2003年)では、教基法一〇条の「教育は不当な支配に服してはならないとする規定は、引き続き規定することが適当」としながらも、教育行政が行うべき「『必要な諸条件の整備』には、教育内容等も含まれることについては、既に判例により確定している」と念を押している。さらに、公共論においては、家庭教育も完全なる私事とは考えられておらず、家庭教育への干渉も許容されることになる。中教審答申(2003年)では、教育基本法に「家庭の果たすべき役割や責任について新たに規定することが適当である」としている。

 

 4−2 愛国心の国定

 

  公共論においては、共同体の価値観を子どもに教え込むことを重視しているが、誰がその内容を決定するかについて、明確な説明がなされていない。つまりは、適切な教育内容を定めるのは教育行政になることを暗黙の前提としている。しかし、「共同体主義が『共同体の価値』を僭称する多数者による専制に陥りやすいことは理解しやすい道理」 [17] であって、教育行政が一面的で偏向した価値観を教え込む危険性があることは、歴史的教訓でもある。公共論には、この危険性についての認識はまったくなく、これを避けるためのシステムについても検討されていない。

  たとえば、自衛隊の海外派兵や日の丸・君が代の実施の問題のように、国民の中で意見の対立する論争がある場合に、言論によって意見を戦わせることが基本であり、つまり、自由な言論の交流こそが民主主義の前提である。ところが、政府が教育を通して、子どもに一方の価値観を教え込み、次世代における意見の対立を回避することができるとすれば、政府が将来の国民から自由な言論の交流の機会(思想交換の市場)を奪い、民主主義の前提を破壊していることになる。これは、政府が言論の弾圧によって民主主義を否定するのに等しい。

  文部科学省が教え込もうとしている、愛国心、日本人としての自覚などの内容は、戦前からの保守的ナショナリズムの見解をそのまま引き継いだもので、とうてい普遍性があるとは考えられない。藤田昌士氏は、道徳教育政策における愛国心の特徴として次の三点を揚げている [18] 。すなわち、@「天皇への敬愛の念」と不可分なものとしての愛国心、A「国を守る気概」としての愛国心、B「我が国の文化や伝統」についての理解と愛情・尊重を内実とする「日本人としての自覚」としての愛国心、である。@は「期待される人間像」に顕著に現れていた。「日本国を愛するものが、日本国の象徴を愛するということは、論理上当然である。天皇への敬愛の念をつきつめていけば、それは日本国への敬愛の念に通ずる。」 [19] という認識であり、これはきわめて独特な愛国心である。Aは他国から侵略を受けたときに自国を守るために戦う気概を指すが、ここでは、いかなる場合も戦争を行ってはならないという絶対的平和の立場は否定される。Bは、日本自体が多文化社会化するなかで、各文化への対等な愛着と尊重を志向するのではなく、あくまで、日本文化を中心に位置づけようとするものである。

  一言で愛国心と言っても、現体制を擁護する愛国心と、それを批判する愛国心とがある。ところが、政府が愛国心のあり方として正しいと認定した愛国心だけを子どもに教え込み、その到達度を評価し通知表に記入することが常態となれば、政府のあり方を批判する愛国心は非難の対象となる。藤田氏がいうように、「愛国心は多義的であり得る。にもかかわらず、政府が特定のイデオロギーにもとづく愛国心を法定し、それを子ども・国民に押しつけるならば、・・・思想・良心の自由を奪うものになる」。これではもう、全体主義としか言いようがない。

 

 

【 注 】

[1] たとえば、教育課程審議会答申「幼稚園、小学校、中学校、高等学校、盲学校、聾学校及び養護学校の教育課程の基準の改善について」(1998年7月29日)では、道徳教育の改善の基本方針として、「次代を担う児童生徒が、未来への夢や目標を抱き、自らを律しつつ、自分の利益だけでなく社会や公共のために何をなし得るかを大切に考え、広く世界の中で信頼される日本人として育っていくことは極めて重要なことである。」と述べられている。
[2] 日本青年会議所 国家創造室 教育改革推進委員会 「これが! JC発『教育基本法』『愛国』のすすめ〜素晴らしい日本人と日本のために〜」2002年度
[3] 佐藤俊樹『不平等社会日本』中公新書1537(2000年)127頁
[4] 読売新聞2003年6月27日
[5] 間宮陽介「自由と公共性」『世界』1995年4月=607号
[6] 藤原保信『自由主義の再検討』岩波新書・赤293(1993年)
[7] 土屋恵一郎『正義論/自由論』岩波現代文庫・社会59(2002年)8頁、50頁
[8] その矛盾については、山口和孝『新教育課程と道徳教育』エイデル研究所(1993年)20頁以下
[9] 小林よしのり『新ゴーマニズム宣言スペシャル 戦争論』幻冬社(1998年)
[10] 西部邁『[市販本]新しい公民教科書』扶桑社(2001年)
[11] 西部邁『戦争論』角川春樹事務所 104頁、153頁(2002年)
[12] 久野昭・水野建雄訳『ヘーゲル初期神学論集I』以文社、加藤尚武『戦争倫理学』115頁より重引
[13] 福田恆存「平和の理念」福田恆存全集五巻、加藤尚武『戦争倫理学』200頁より重引
[14] ヘーゲル『精神現象学』樫山欽四郎訳、河出書房、263頁 「精神が飛び散ってしまわないようにするためには、政府は戦争によって、時々それらを内奥からゆり動かさねばならない。」
[15] サン・ジュスト『革命の精神』、R・カイヨワ『戦争論』秋枝茂夫訳、法政大学出版局、120頁より重引
[16] 務台理作「教育の目的」宗像誠也編『教育基本法 その意義と本質』新評論75頁(新装版1988年)
[17] 世取山洋介「アメリカ公立学校と市民的自由」市川須美子・安達和志・青木宏治編『教育法学と子どもの人権』三省堂(1998年)134頁
[18] 藤田昌士「『愛国心』と『国際化』」『教育法』136号26頁
[19] 中央教育審議会「期待される人間像」(1966年10月31日)

 


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