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TITLE:  自由主義と共同体主義の教育モデル
AUTHOR: 羽山 健一
SOURCE: 全国教法研会報 第63号(2004年6月10日)
WORDS:  全40字×151行


自由主義と共同体主義の教育モデル


大阪教法研  羽 山 健 一


  第18回理論フォーラムでは「共同体主義と愛国心」というテーマで、共同体主義が国家的共同性を強調することによって、容易にナショナリズムと結び付くことの危険性を中心に報告した。その内容のほとんどは本誌前号の第62号22頁以下に掲載されているので、ここでは、理論フォーラムで報告しておきながら前号で十分に触れられていない内容を補うこととしたい。


1.自由主義の教育モデル


  自由主義に基づく学校教育の典型的な在り方を「自由主義の教育モデル」と呼んでおく。その特徴は次のとおりである。
  @ 学校教育の目的は、子どもが人格的に独立した個人となって、自分で価値判断をして、自らの決定した目標を達成することが効果的にできるようにすることである。換言すれば、教育の目的は「個人の育成」であり、「人格の完成」である。したがって教育は子ども本人の利益のために行われる。
  A 親が自分の子どもを教育することは非権力作用であって私的領域に属する営みであるので、それは政府の権力の及ばない領域であるとされ、どのような教育を施すかについては、親の教育の自由が認められる。ただし、親は子どもにとって適切な教育がどのようなものであるかを判断しそれを実施する責任や義務を有する。ところが、親は一人では十分な教育を授けることができないので、親たちが学校を組織し共同して教育を授ける方途を選んだ。これが学校教育であり、その性格はこれまで「私事の組織化」、「親義務の共同化」と呼ばれてきた。したがって、学校教育も基本的には私的領域に属する営みであって、そこでいかなる教育を行うかについては、親集団の自由が認められ、これに対する国家的統制は限定された範囲でなければならない。
  B 学校教育をとおして、政府が特定の価値観を子どもに強制することは全面的に排除されなければならない。政府は特定の価値観をもつこと自体が認められず、さまざまな価値に対して中立性を保持しなければならない。たとえば、政府が「進化論」を誤っているとしてこれを教えることを禁止したり、反対にこれを正しいとして子どもに教え込むこと強制することは認められない。このことから、政府は学校で教えるべき教育内容を決定する権限を持たず、教育内容に介入してはならないとされる。


2.共同体主義の教育モデル


  共同体主義に基づく学校教育の典型的な在り方を「共同体主義の教育モデル」と呼ぶことにして、その特徴を次にまとめた。
  @ 学校教育の目的は、子どもが善き公民となって、社会の担い手として公共の課題を自覚し、その発展に貢献できるようにすることである。換言すれば、教育の目的は「社会の成員の育成」であり、良き「公民の育成」である。したがって、教育は社会、公共の利益のために行われる。
  A 学校教育は、共同体の存続のために共同体の価値観を次世代に伝える作用であり、公的領域に位置づけられ、統治作用の一貫ともいえる。
  B 共同体の価値観を教え込む(注入する)ことは積極的に承認される。共同体が次世代の人たちを教育し共同体の価値を教え込むことは、共同体の価値を継承し共同体自身を維持するために不可欠のことであるからである。そのために、共同体が教育内容を決定することは正当なこととされる。


3.教育モデルと現実の教育


  この二つのモデルは、教育の本質にかかわる両極端の理解を示すものであり、現実の教育がどちらかのモデルに完全に立脚するということはない。結局のところ、現実の学校教育は多かれ少なかれ両者の要素を備えているという他ない。
  まず、教育の目的とされる個人の育成についても、「社会の中の個人」という位置づけを考慮せずに、その育成を考えることはできない。また反対に、個人の人間性を無視した公民の育成という教育もありえない[1]。したがって、現実の学校教育は学ぶ者のために行われると同時に社会のためにも行われるものであろう。
  自由主義的教育モデルの主張する教育の自由については、国民の間にまだ十分な承認が得られているとはいえない。その根底には、子どもをどんな人間に育てるかは専ら親の自由(教師の自由)であると見ることに対する違和感があるように思われる。アメリカ合衆国において、ホームスクールを行う親の権利が判例上で確立されてはいないが、それは、親の教育の権利が保護されるにしても、義務教育免除と代替教育に関する親の権利を認めることによって、民主主義社会の参加者を育成するという州の利益が損なわれると考えられているからである[2]。ここでは、子どもの教育が完全に親の自由のもとに置かれることは承認されない。子どもを次代の社会の一員に育てるために、政府が義務教育制度を採用して学校制度を定め教育内容に関わる権限が認められている。したがって、教育は完全な私的領域とはされていない。
  学校教育において特定の価値の教え込みを行うことが原理的に誤りであるとする自由主義の主張には無理がある。社会を成り立たせている普遍的価値を子どもに教え込み、将来の市民を育成することは学校教育の重要な役割なのである。たとえば、「憲法の根本をなす民主主義と平和主義とは時代と場所を超越する人類普遍の原理であるという信念を被教育者に植え付けること」は重要であり[3]、国民の教育上必要であるばかりでなく、民主社会の存続を担保し社会秩序を維持するために、行わなければならないことである。子どもの教育を受ける権利についても、社会の一員となることができるように「適切な仕方で価値を注入してもらう権利としての側面をもっている」とみるべきであろう[4]。政府は望ましい普遍的な価値を継承するために学校教育を設けたのであり、実質的に価値秩序に深くコミットしている。したがって、あらゆる価値に対する厳密な中立性を政府に要求することはできない。


4.教育基本法の規定とその改正


  教育の目的のような倫理的内容を法律に規定することが妥当であるかという点について議論があるものの、現に教育基本法には教育の目的が規定されている(第1条)。そこには、教育が「人格の完成」をめざし、同時に国家社会の形成者としての「国民の育成」をめざして行われるべきものとされている。いわば、個人の育成と国民の育成という直ちに調和しそうもないこの両者のバランスを図っているといえる[5]。
  また教育基本法は、前文において「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。」と規定して、憲法と教育との関係を明らかにして、国家の理想を実現していくために教育が重要な機能を果たすことを確認している。このことは憲法的価値の実現という国家的戦略を教育が担うべきことを示したものともいえよう。したがって、教育基本法の規定する教育の理念は、社会、公共の利益のための教育を含んでいるのであり、自由主義の教育モデルとぴったり重なるわけではない。
  もし、教育基本法が改正されて「公共の精神」や「郷土や国を愛する心」が規定されれば、これらは学校教育において、子どもたちに教え込むことのできる価値という地位を獲得したことになる。そしてこれに異議を唱えることは親や教師の教育の自由としては認められないこととなる。つまりその範囲で親や教師の教育の自由は制限され、愛国心の強制に抵抗できなくなる。このような改正によって「日の丸、君が代」処分をめぐる訴訟において、教師側はきわめて不利な立場に立たされることは明かである。
  愛国心を規定するという教育基本法改正論議において問題となるのは、政府による価値の教え込みを一律に排除するかどうかではなく、愛国心を普遍的価値として子どもに教え込むべきものとして認めるかどうかであると考える。教育の自由を保護するために、価値の注入自体を認めるべきではないとするのは、自由主義の教育モデルであった。したがって、実際の教育の在り方を考えるにあたっては、教育の自由の範囲を画定するために、教え込むべき価値と教え込むべきでない価値を峻別する議論が必要であると考えられる。
  しかし、教え込むべき価値であるかどうかは誰が決定するのか、また、それに誰が責任を負うのかは明かになってはいない。現実には、政治的多数派が教育行政を通じて、あるいは議会を通じて、一面的で偏向した価値観を子どもたちに注入しようとその圧力を強めている。それは愛国主義、反平和主義の価値観である。
  社会で共有されていない価値観を子どもに注入することは、共同体主義の教育モデルにおいてさえ認められない。ところが、支配的多数派がこうした教育への介入を行うことに対して制度的な歯止めが設けられていない。それゆえ多数派は共同体の価値を僭称し、共同体の名を借りて、ほしいままに価値を注入しようとしているのである。
  民主党の西村真悟衆議院議員は「教育基本法改正促進委員会」において「お国のために命を投げ出しても構わない日本人を生み出す。お国のために命をささげた人があって、今ここに祖国があるということを子どもたちに教える。これに尽きる」と述べた[6]。この発言は、教育基本法に愛国心を盛り込むことの真意が「国のために命を捧げる精神」を教え込むことにあると明言している。しかし、これはきわめて特殊な愛国心の理解であり、社会に共通する価値観であるとはいえない。仮に、教育基本法が改正されて「愛国心」という言葉が加わったとしても、「国のために命を捧げる精神」を教え込むことが認められたことにはならない点に留意すべきである。
  子どもに教え込むべき価値の範囲を限界づけ、教育の自由の領域を画定するための指標として、次の最高裁学テ判決の憲法解釈は示唆を与えてくれるであろう。
  「個人の基本的自由を認め、その人格の独立を国政上尊重すべきものとしている憲法の下においては、子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家的介入、例えば、誤つた知識や一方的な観念を子どもに植えつけるような内容の教育を施すことを強制するようなことは、憲法二六条、一三条の規定上からも許されないと解することができる」[7]。すなわち、子どもの自律的な判断能力の育成を阻害するような教育は、いかなる意味においても許されるものではないのである。


【 注 】
[1]共同体主義の教育モデルの典型的な例が古代ギリシアのスパルタの教育であろう。スパルタでは理想的な市民を育成するために、7歳の男子を兵舎に集めて、彼らのその後の教育と訓練を公的な組織に委ねた。こうしたやり方は人間性を無視した、教育という名に値しないものであろう。
[2]下村一彦「米国連邦憲法上のホームスクールを行う親の権利」日本教育行政学会年報29号94頁(2003年)
[3]田中耕太郎『教育基本法の理論』608頁(1961年
[4]内野正幸「教育権から教育を受ける権利へ」ジュリスト1222号102頁(2002年)
[5]務台理作「教育の目的」宗像誠也編『教育基本法 その意義と本質』新評論75頁(新装版1988年)
[6]「『国のため死ぬる人を』今後の教育巡り西村議員が発言」朝日新聞 2004年2月26日
[7]最高裁大法廷 1976年5月21日判決 判例時報814号37頁





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