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TITLE:  学校教育紛争とその法化 − 教員体罰を素材に − 
AUTHOR: 馬場 健一
SOURCE: 大阪高法研ニュース 第144号(1994年7月)
WORDS:  全40字×305行

 

学校教育紛争とその法化 -教員体罰を素材に-

 

馬場 健一(北九州大学) 

 

(本稿は1994年6月に京都で開催された法社会学会関西支部総会シンポジウムでの報告を短縮したものである。)

 

I はじめに

  「法化」をめぐる議論が、現在特に若い世代の日本の法社会学研究者にとって、流行ともいうべき様相を呈している。しかしながらそれは今までのところ、外国の議論の紹介か、抽象的な理論レベルでの研究に終始しがちであり、そうした議論の枠組を日本の法の現実と切り結ぶような実証研究は行われているとはいいがたい。自らの社会及び法の現実との突き合わせの中で、従来の議論の射程や問題点を洗い出し、現象理解のためのより普遍的かつ生産的なモデルを構築することは、社会科学たる法社会学の本来的任務ともいうべきであるが、本報告はこうした方向に一歩でも進もうと試みるものである(注1)。

  本報告の論述の順序を述べる。まず、実証的資料の呈示に先だって、そうしたデータが参照されるべき枠組として、法化現象の理解のための2つの見方を示す。それはドイツ流の法化(Verrechtlichung)モデルと、アメリカ流の法化(legalization)モデルともいうべきものである。次に、日本の法化現象の一例として、学校生徒に対する教員の暴力・体罰の統制のありようとその法化をとりあげ、その特質、すなわち「法化」のわが国におけるひとつの具体相を検討する。そしてそうした実例に基づいて、先の2つの見方の有効性を簡単にではあるが検討し、その射程を問うてみたい。なお本報告は、筆者が棚瀬編「現代法社会学入門」(法律文化社1994年)の担当部分(第1編第3章)において論じた内容の敷衍・発展として位置づけられる。そちらの論述もご参照いただければ幸いである。

 

II 法化のドイツ流理解とアメリカ流理解

  「法化」概念の検討は、それ自体ポレミックな問題としてすでにかなり詳細に行われてきており、現在のところトイプナーの論ずるような「法の実質化」と「社会国家の介入主義」をメルクマールとした理解が、日本でも主流であるように思われる。こうした理解の問題点について、報告者は前出の「現代法社会学入門」の中で指摘しておいた。ここではそうした批判を再述するかわりに、そうした議論を報告者が展開するにあたって下敷きにした、現代社会における法の機能拡大に対するドイツとアメリカの論者の見方の差異と報告者自身が理解するところを、あえてやや単純化し図式化して提示しておきたい。

  ドイツの論者は、自己の議論を普遍的なものとして展開している(注2)が、そこにはやはりドイツ的・大陸法的観点ともいうべきものがかなり反映されているように思われる。以下三点にわたり、アメリカの議論との比較で対照的と思われる点を指摘してみたい。

  第一にそれは、行政の今日的ありようと不即不離に結びついた議論である。形式法の実質化/社会国家の介入主義といった観点は、行政権の肥大化とその問題性とを意識した議論であることはいうまでもない。そこでの法の担い手はこうした行政機関であることが前提され、それはあるいは詳細な規制法を増大させ、あるいは一般条項・委任条項に結びつけられて拡大した裁量を柔軟に活用しつつ、社会正義を実現せんとする倫理的主体として位置づけられている。裁判や司法の役割についての関心は二次的である。

  これに関連して第二に、ドイツ流理解は、法のいわゆる現代的変容に強く着目する点で、特徴的である。いわゆる「形式的法の実質化」の問題点としてあげられるのは、法が政治性を帯び道具化・手段化し、その正当性と予測可能性が失われている事態である。ここでは法が「目的プログラム」化していることが批判されている。

  第三に、規制対象とのかかわりでいえば、実質型法の介入や国家の後見的関与によって社会にもたらされる事態は、それまでの非関与あるいは形式的規制の領域に、権力や貨幣という媒体が入り込んでくるという変容であり、社会の国家への従属、市民社会原理の形骸化という現象としてとらえられている。

  以上要約すれば、ドイツ流法化論の法化理解は、第一に行政による統制を問題の焦点に置き、第二に法の「目的プログラム」化を論じ、第三に市民社会の国家化・形骸化を問題視するという構成をとっているといってよいのではなかろうか。

  これらの点においてアメリカの議論は、かなり異質な、ある種対照的ともいえるような見方と捉えうるように思われる(注3)。

  上記の第一点との関係でいえば、アメリカの法化は、行政による、というよりもむしろ行政に対する、もしくは行政とは直接かかわらない、法使用・法の発動の活発化、法の役割拡大としてとらえられることが一般であるように思われる。行政に対する統制としての法の役割拡大としては、行政と企業とのなれ合いを防ぎ、企業に対する法統制の実効性を高めるために行政の役割を詳細に定めるに至った産業規制の例(注4)や、情報公開制度の発達(注5)、教育機関や拘禁施設における各種デュープロセスや実体的権利の保証等が、後者の行政とは距離を置いた法化とは、裁判・司法・法曹等の役割の質的変化と拡大、家族関係・環境問題・消費者問題等におけるの法的規制の強化、社会的少数派・弱者の権利保障の進展などをあげることが可能であろう(注6)。もちろんこうした現象の中には行政の機能拡大が伴うことも少なくないが、議論の流れはかならずしも社会国家の問題性・限界といった観点を核とするものではない。それはいわば、法的正義の普遍化・拡大としての法化把握ともいうべきものである。

  第二に、アメリカでは、法が変質し実質化したことというより、法的規制が規制領域の特質を顧みず硬直的・形式主義的であることや、そうした規制が柔軟な行政活動を阻害していることを問題視する論調が強いように思われる。これを法がいわば「条件プログラム」としてその効果を規制領域に機械的に押しつけていることと捉えるならば、米独の法化論における現代法の理解は相当に異質なものを含んでいるというべきではなかろうか。

  第三に法の規制対象のこうした広がりは、社会の国家への従属とか市民社会原理の形骸化というよりは、逆に、私的領域や特別権力関係の「市民社会化」の進展として捉えられているように思われる。そうした領域に権力や貨幣が入り込んでくるという把握ではなく、むしろそうした部分が直截に憲法の市民的自由権や刑事法等の近代法原理の適用領域になりつつあるという理解に近いのではなかろうか。

  以上のような両国の法化理解の差異の指摘の中に妥当な観点が含まれているとするならば、そこに集権国家と分権国家、福祉社会と訴訟社会、大陸法国とコモン・ロー国というそれぞれの国の法文化的背景の投影をみることも可能であろう。であるならそうしたモデルは、それぞれの見方の射程を問い直す実証研究を要請するものであるとともに、そうした文化的臍帯から脱したより普遍的、包括的な法化理解のための理論的考察にも開かれているものといえよう。本報告はそのような問題意識から、わが国の学校教育紛争に実証研究のための素材を求め、検討を加えようとするものである。ドイツとアメリカ双方の法の影響を受けしつつ、なおかつそのどちらとも異質な東洋社会における法化の実証研究は、こうした方向性に対して格好の素材を提供しうる位置にあるのではなかろうか。

 

III 日本の学校教育紛争とその法化 -教員体罰を素材に-

(1)学校教育紛争/体罰問題を取り上げる意味

  学校教育は米独ともに法化論の主要な関心領域のひとつであり続けてきた(注7)。教育機関としての学校は、生徒に対して福祉機関、拘束的施設および疑似共同体の性格を併有し、独自の作動原理をもっている。生徒と教師の間には専門性原理や施設管理者−被収用者の関係、パターナリズムといった要因に依拠する力の不均衡性が存在する。教室は密室であり、紛争当事者の関係は継続的である(注8)。そうしたところで生じる生徒と学校側との紛争は、近代法が前提している対等二者間のダイアディックな紛争構造とは異なり、こうした紛争は従来は極端な場合をのぞいては教育システム内で処理され、法システムの関与するところとはならなかった。しかしそうした伝統的ありように変化が生じつつある。

  ここでは学校紛争の中でも特に体罰問題を取り上げる。この問題は法化が特に見やすいかたちですすんでいる分野であると思われるためである。法システムがこの問題に強く関心をもつ理由には、次のようなものが考えられる。第一に教員の体罰は明白に法禁されており、違法な行為であることが明白であること(注9)。第二に、にもかかわらずそれが後を絶たないこと。第三にそれが物理的暴力であり、近代法の立場からその統制に強い関心が向けられる行為であること。第四にそれが子どもという弱者に向けられたものであることは、現代法の福祉的モメントと対立しうること。第五に、実際に生じる被害が往々にしてきわめて重大であること。最後に、以上のような問題性にもかかわらず、それが教育システムの論理から正当化され、行使者には寛大な処置がとられるがちなこと、である。

(2)伝統的処理

  まず、生徒が教員に暴行を受けた場合の伝統的な教育システム内処理がどのようなものになりうるかを、報告者が北九州市の情報公開条例にもとづいて請求し部分公開された体罰事件にかかわる学校事故報告書の一例を素材に示したい(事件発生は1988年)。こうした文書が行政に提出されること自体、そしてそれが情報公開によって市民の目に触れること自体、教育紛争の一定の法化が進展していることを示すものである。(大部分の体罰事例は学校内部で処理され、教委のレベルにまで上がってはこない。)しかしこの中に記されている紛争処理のありようは、きわめて伝統的なスタイルをとったものである。また、本件はそうした処理の問題性がかなり明白なかたちで露出しているもので、かならずしも伝統的処理のありようを代表するものとはいえないが、例外であるともいえない。ここにみられる問題性は、多かれ少なかれ体罰事件の伝統的処理に共通のものである。

 本件は、ある生徒に昼休みに学校外にジュースを買いにいかせた嫌疑をかけられた生徒が教員に殴打され、負傷した事件である。きっかけ自体ささいなことに思われるが、それは学校の論理からは教育的指導に値する違反行為である。ジュースを買いにいった生徒の口から4名の生徒の名があがる。しかし彼らは自分はそうしたことを命じてはいないと無実を主張する。これに対する教師側の反応は、報告書にあるままを引用すれば、「『何故本当のことを言わないか』**教諭の正義感が卑怯な態度をとった**を許せず詰め寄った」というものである。感情的やりとりがあり、「反抗されたと感じた」教員が生徒を「つい3回撲(ママ)ってしまった。」(ちなみにここに発現している暴力は、教育的配慮にもとづく「愛の鞭」というよりは、教師の権威が脅かされたことに対する反作用のように思われる。)その結果、前歯が2本折れ、口の中を口内縫合が必要なほど切る。相当の出血もあったことであろう。事件を知った親は大変なショックを受け、父親は「激昂」して「学校に怒鳴り込む」。しかし学校の対応により「冷静さをとり戻し」、本件殴打や教師の「信念」に「理解をしめす」ようになり、「自分の子どもの生活態度が悪かった」ことが原因であると納得するに至る。母親の対応もこれにうりふたつなものと記載されている。そして校長の態度は、「校長として本日の件は真に遺憾」「歯が折れるということは大変遺憾」であるが、「生徒に真剣に取り組む**教諭の姿勢は立派である。見習うべき点が多々あると思う」「信念をもって行動している**教諭を自分は今後も大事に育てていきたい」「これを契機に校内生徒指導体制をいっそう充実させたい」というものである。歯科医も今回の事件は不運な偶発事であり「普通では歯はあのような折れ方はしない」と図を描いて証言する。治療と「果物籠」で事件は落着する。最後に、「校長の判断では今後今回の件でいろいろと問題が生ずることはないと考えている」と締められる。(なお、別の事件の報告書では、「親の様子は今のところ問題はない」と記してあるものもあった。)最後まで当の生徒の声は記されておらず、生徒の問題行為があったかどうか、あったとしてそれが殴打に値するかどうかは問われずじまいである。ちなみに本件教員と校長に対しては、教育委員会の処分は一切なされていない。(このように被害の重大なわりに処分が極めて寛容な例は多い。ちなみに体罰を理由に教委からなんらかの処分を受けた者は、1980年代後半から急激に増加し、年間二百人台を推移している。)

  ここにはこうした学校教育紛争が推移する「関係性の磁場」のありようの実相がよく伝えられている。そしてそれは仮に被害者側が学校側の対応を受け入れ、紛争を終結させたとしても、その和解の「質」が問われ返されざるをえないようなものである。

  さらにより一般的な観点からは、このような報告書が出される教育システム自体をどう評価するかという問題がある。それは我々の目に触れない部分でこうした一方的な作文が作成されるシステム、こうした暴力行為を、問題・病理と捉える姿勢の欠如した機構をどう考えるかという問題であろう。

(3)法化の進行

  全面法禁というタテマエの裏で、暴力的で陰惨な学校体罰がまかり通ってきたという認識が、ここ十数年のあいだに高まり、さまざまな対策が講じられつつある。その一端を示してゆきたい。

i)教育行政の変化

  体罰問題に特に焦点をあてて施策を講じようとする教育委員会が、全国的にはいまだ少数とはいえ、かなりの数にのぼっている。数十頁にわたる体罰問題についてのマニュアルをつくり、それを各学校に配布するような例が典型的である。そうしたマニュアルの中では、学校体罰の法的・教育的問題点が詳細に論じられており、現場の啓蒙が目指されている。また体罰事件が生じたときの処理手続きが定型化・制度化され、それまでのような学校事故の単なる一類型といった扱いの変更も行われている。その例として「体罰問題特別委員会」を設置した大阪府堺市教委の例、体罰報告書の様式を詳細に定め、学校側に都合のよい作文になることを排除しようとしている福岡県飯塚市教委の例、学識経験者・弁護士・民生委員といった第三者までも構成員とした「人権教育検討委員会」を設置した岐阜県八百津町教育委員会の例をあげておく。

  こうした教育委員会の施策は、(被害)生徒や親に実体的な権利を付与したものではなく、あくまでも啓蒙や機構の整備といった性格のものであることが普通である。しかしこれまではすでに紹介したような伝統的処理がなされてきたことと、現在でも多くの教委がそうした処理ですませていることとを考えれば、大きな変化である。なによりも学校に事実上もっとも大きな影響力を行使しうる教委が、こうした施策をとることの意味は大きい。そしてそこには、密室性・事実関係の把握の困難性・歪曲可能性といった問題点への対処の後がうかがわれ、「教育的配慮」の論理で学校・教員側の利害が糊塗される状況に対して、法的知識とデュー・プロセスとを対置させているものとみることが可能である。

  付言すべきは、こうした教委の対応は、それを求める市民の力で引き起こされていることである。ひどい体罰が発生し、学校・教委の不誠実な対応で問題がこじれ公になり、親や市民グループ、弁護士やマスコミ、議会等が追求する中でこうしたものの作成を余儀なくされる、というのが典型的パターンである。重大な事件が発生して重い腰をあげるというのはいわゆる人柱行政でもあるが、そこに市民のイニシャティヴが働いていることも事実である。こうした力は、自治体レベルでの情報公開制度・個人情報保護制度・オンブズマン制度の活用によって補強され、継続的なものとなっている場合も多い。

ii)法務省人権擁護局の取り組み

  教委以外にも学校体罰問題に積極的に取り組んでいる行政機関がある。法務省の人権擁護局である。ここは関係者からの申告やマスコミの報道によって情報を入手し、学校等に聞き取り調査も行う。そして事例が「人権侵犯事件」にあたると判断した場合は、「説示」「勧告」「要望」等の措置をとる。1980年代後半から、こうして処理された事件数は増加し、年間百数十件に達している。こうした措置は人権擁護の観点からの啓発活動、すなわちそうした意味での特殊な「行政指導」ともいうべきものであり、なんら強制力のある処分ではないが、法を専門とする行政機関の措置ということで、一定の影響力をもっている。体罰問題は、いじめとならんで学校教育における典型的な人権侵犯事例として重点的に取り組まれている問題のひとつであり、最近の「子どもの権利条約」の批准・発効にともなって、そうした取り組みはさらに強化されていると報じられている。

iii)弁護士(会)の関与

  弁護士及び弁護士会もこの問題に対してここ十年ほど積極的に対応するようになった。日弁連が作成した「子どもの人権救済の手引き」の中ではそうした救済のための基本戦略や体罰はじめ個別問題領域ごとの対応法が細かく記されている。活動単位は個人のほか、地域弁護士会の人権擁護委員会といった組織、全国の有志が組織する「子どもの人権弁護団」などである。活動内容は電話や窓口による無料相談から学校への聞き取り調査、訴訟等の司法的処置と事例に応じて多様である。体罰関係の最近の訴訟は、多数の弁護士が手弁当で行う、教育行政へのインパクトを狙った政策形成訴訟としての性質を帯びている。訴訟までいかない場合も関係当事者からの調査をもとに[警告][勧告][要望]などを地域弁護士会長で出すことが行われる。「手引き」冒頭の[救済活動の基本要領]をみるとわかるように、迅速な救済の必要性や当該生徒の学校における円満な関係性の確保、学校における事実関係の把握の困難性等が指摘され、学校教育紛争の特質に配慮し、法的正義をごり押しするのでは必ずしもなく、いわば「関係調整的」に関与していこうとする姿勢がみられる。そうした弁護士の対応は、監督官庁でも行政機関でもないが、社会的影響力のある法の専門家としての威信を背景に、一定のインパクトを及ぼしてきている。

iv)評価

  以上述べた諸機関の対応には、いくつかの共通要素や傾向性があるように思われる。

  第一はその手続的・関係調整的性格ともいうべきものである。教委における事件処理の定型化、人権擁護局や弁護士の関与の非強制的性格というものは、性質上そうしたものに落ちつかざるをえず、十分な影響力を学校現場に及ぼしえないという消極的側面とともに、この問題には裁断・強制・決定中心の法的処理が必ずしも十全な紛争処理機能を果たすものとはいえず、逆機能や副作用を生じさせかねないもので、それゆえそうした処理は最後の手段とすべきであるとの判断と、こうした手続的・関係調整的処理にもそれなりの効果があるという積極的認識とが存在しているといえる。

  第二に、こうした関与は、「教育」の論理・作用に対して「法」の論理・作用を対峙させているものとみることができる。それは単に「子どもの人権」がスローガンとして叫ばれているというだけではない。法的専門性という資源の活用、手続への指向、事件処理の定型化、紛争当事者の非対等性や紛争の場の密室性を是正していこうとする関心、こうしたありようの中にこそ「権利」「自由」「公正」「正義」といった価値にかかわる法的精神の一端をみることができるのではなかろうか。

  第三に、それが学校教育作用に対するコントロールの一元性の「ゆらぎ」ともいうべき事態をもたらしているのではないかということである。情報公開等による教育作用の透明化、法的専門家の関与の積極化、市民やマスコミの意識変化等といった事態は、新旧さまざまなアクターの相互作用の活性化をもたらし、従来の閉鎖的で一元的な教育専門性・公的機関性の壁に一定のインパクト−権力の多元化・分散化とまではいえないにしても−を及ぼしている、もしくはそのきざしをもたらしている、といえるように思われる。

  以上簡単ではあるが、学校体罰問題に対するここ十年ほどの変化の一端をかいまみてきた。ただしこうした変化はごく最近のもので、大きな転回ではあるが全国的視野からみればいまだ萌芽的、部分的なものであるというべきである。

 

IV 結語

  以上の日本の「法化」現象の一事例を、Uで提示した二つの法化モデルと照らし合わせて検討してみたい。

(1)行政による統制か、行政に対するもしくはより一般的な法の役割拡大か

  学校教育のありように対して教委や法務局といった行政機関が働きかけを強めているという点ではそれはドイツ的見方に通ずる。裁判等の司法機関の役割拡大や役割変化はここではそれほど大きな論点ではない。しかし他方で、学校という教育機関および教育行政一般への法の浸透・法的統制の強化という点からすれば行政に対する統制でもあり、弁護士の役割拡大や市民の法使用の活発化、体罰禁止法の実効性確保による生徒の権利の実質化という点では法の一般的な役割拡大でもある。

(2)法の目的プログラム化の弊害か形式的規制の弊害か

  とりあげた例においては、法化の進展自体が萌芽的なものにとどまっており、体罰抑止という目的には正面から反対しにくいこともあってその弊害が正面から主張されることは少ないが、学校関係者には一般的に体罰批判に対する根強い反感が存在しているといえる。それは自らの教育実践の裁量に(彼らの言によれば「事情を知らない」)外部から枠がはめられることに対する反発である。そうした反発は、法とのかかわりであえていえば、法が政治の道具とされているという理解よりは、形式的規制の弊害の主張に近いものであろうが、現状では既得権益を侵されることに対する主観的認識の域を出ていないと思われる。また、次の論点にもかかわるが、近代法の変容か浸透かという点では、後者のほうが本事例を説明する枠組としては適しているように思われる。

(3)市民社会の国家化・形骸化か私的領域や特別権力関係の「市民社会化」か

  これもこの事例では後者とみておくのが、表面的な現象理解としては一応素直であろう。

  以上2つのモデルとの単純な照らし合わせからは、本事例における「法化」は、かなりアメリカ・モデルよりの中間形態と評価しうるものであるが、これはもちろん、学校教育という権力関係の内部での教員暴力抑止という素材自体に大きく規定されたものであることはいうまでもない。実証の対象が異なれば日本における「法化」の様相も違ってくることであろう。一般論として近代公教育の内部関係は市民社会とは異質な世界であるし、さらに日本の場合それははじめから徹底的に国家化されたものとしてあったといってもよい。そもそもそこに植民地化される「生活世界」などなかったのである。

  しかしながら以上にみてきた事例が、「法化」という現象とはなんら関係のないものだと極論するのでないかぎり、そうした法化の日本的な現象形態をも包含するような説明モデルが要請されるというべきであろう。この点について報告者は「法的正義の拡大」という観点から米独の両モデルを統合・止揚するような視座の可能性を試みたことがある(注10)が、ここではこれ以上立ち入らない。

 またここでの例から読みとれることは、「法化論」と並んで議論されるような新しい法の役割の萌芽が、その中に示唆されているように思われる点である。法主体の多元化、手続・過程・交渉への指向、関係調整的性格、当事者の非対等性や紛争の場の構造上の問題点を是正していこうとする関心、等といった傾向が、萌芽的なかたちながら本例からはうかがうことができる。しかし本報告は実証性に重点を置き、そうした理論的検討に安易に接合することは禁欲しておくことにする。他方で本報告がそうした方向へのいくばくかの示唆あるいは実証的基礎を与えうるものとなることを望みたい。(終)

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1 グンター・トイプナー 1990 「法化−概念、特徴、限界、回避策−」(樫沢秀木訳)九大法学59号235-238頁。

2 トイプナー前掲(注1)、236頁。ユルゲン・ハーバーマス 1987 『コミュニケーション的行為の理論(下)』(丸山・丸山・厚東・森田・馬場・脇訳)未来社284ー434頁。樫沢秀木 1990 「介入主義法の限界とその手続化−『法化』研究序説−」法の理論10号133ー140頁。

3 たとえば、Marc Galanter,"Legality and its Discontents: A Preliminary

 Assessment of Current Theories of Legalization and Deligalization," Erhard

 Blankenburg et al (Hrsg.), Alternative Rechtsformen und Alternativen zum

 Recht, Jahrbuch fuer Rechtssoziologie und Rechtstheorie, Bd.6, 1980, pp.17-22

  における議論と、トイプナー前掲(注1)におけるそれとを比較のこと。

4 棚瀬孝雄 1991 「法化社会と裁判−国際化時代の日本の裁判」ジュリスト971号69頁。

5 アメリカ自由人権協会『プライバシーの権利』(青木・高嶌監訳・教育史料出版会・1994)

6 Kirk R. Willians and Richard Hawkins, "Controlling Male Agression in Intimate

 Relationship," Law and Society Review, vol. 23, 1989, pp.591-592; Marc

 Galanter, "Legality and its Discontents: A Preliminary Assessment of Current

 Theories of Legalization and Deligalization," Erhard Blankenburg et al

 (Hrsg.), Alternative Rechtsformen und Alternativen zum Recht, Jahrbuch fuer

 Rechtssoziologie und Rechtstheorie, Bd.6, 1980, pp.11-26.

7 ハーバーマス前掲(注2)書374-381頁。David L. Kirp,"Proceduralism and

Bureaucracy:Due Process in the School Setting," Stanford Law Review, vol.28,

 1976, pp.841-876; David L. Kirp and Donald N. Jensen (ed.), School Days,

 Rule Days - The Legalization and Regulation of Education -,(The Falmer Press,

 1986); 青木宏治「アメリカ合衆国における公教育の『法化』とその特質」東京都立大学法学会雑誌32巻1号(1991)133-157頁。アメリカ自由人権協会『生徒の権利』(青木・川口監訳・教育史料出版会・1990)

8 拙稿「社会の自律領域と法−学校教育と法との関わりを素材に−(一)(二・完)」法学論争127巻5号(1990)62-85頁、128巻3号(1990)51-69頁。

9 学校教育法第11条。

10 棚瀬孝雄編『現代法社会学入門』(法律文化社・1994)87ー93頁。



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