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TITLE:  子どもの権利条約8条「アイデンティティ保持の権利」と在日朝鮮人
AUTHOR: 伊藤 靖幸
SOURCE: 大阪高法研ニュース 第177号(1998年4月)
WORDS:  全40字×267行

 

子どもの権利条約8条「アイデンティティ保持の権利」と在日朝鮮人

 

伊 藤 靖 幸 

 

1.「アイデンティティ保持の権利」とは

  本条約の8条は「identityについて不法に干渉されることなく保持する権利」を定めている。しかしこの権利の詳細は必ずしも明白ではない。宮下毅はこうした事情をうけて、少なくとも条文にある「法によって認められた国籍、氏名及び家族関係」はアイデンティテイの内容として含まれると解されるとする。また、ここでも公定訳の訳語が問題となる。公定訳ではidentityに「身元関連事項」の訳があてられているのである。同じidentityが29条c)で「(文化的)同一性」と訳されているのとアンバランスであり、好ましいとは言えない。金東勲は「身元」という語は在日朝鮮人にとって「身元保証」とかいう意味で入っていると指摘している。確かに「身元」という語のニュアンスには、アイデンティティの持つ語感とは落差が感じられる。金東勲はまた、アイデンティティには、韓国・朝鮮人、あるいはアイヌの人達のようなマイノリティがその民族的なアイデンティティ(同一性)を維持するという場合を含むと指摘している。「身元関係事項」ではこのような民族的アイデンティティといった意味が抜け落ちてしまう感があるのは否めない。29条c)のアイデンティティがマイノリティのアイデンティティを含んでいることは成立過程の議論から明白であり、8条のアイデンティティについても、金東勲のような解釈は十分成り立つと考えられる。やはり、identityに身元関係事項の訳をあてるのは適当ではなく、そのままアイデンティティとしておくべきであろう。

  さて、在日朝鮮人のこうした意味のアイデンティティにとって、8条にあげられた国籍・名前はともに大きな意味を持っている。以下、国籍・名前の順に述べてみたい。

 

2.在日朝鮮人と国籍の問題

 1) 在日朝鮮人と国籍問題の経過

  在日朝鮮人にとって国籍の問題は、まさにそのアイデンティティを左右する大きな問題である。この問題を考えるに際しては、少し歴史的経過を見ておく必要がある。

  朝鮮人は1910年の韓国併合条約により日本国籍とされた。日本の敗戦後なお日本に残った朝鮮人つまり在日朝鮮人の国籍は、講和条約の発効までは基本的にはなお日本国籍を有するとされていた。しかし当時の日本政府及びGHQの在日朝鮮人の国籍についての方針はご都合主義で一貫しておらず、学校教育の面では日本国籍であるから日本の学校への就学義務があるとしながら、選挙権や外国人登録の面では外国人とみなして、選挙権を剥脱して外国人登録をさせるという矛盾した対応を行なったのである。そしてサンフランシスコ講和条約が発効する直前の1952年4月19日付け法務府民事局長通達「平和条約の発効に伴う朝鮮人台湾人等にに関する国籍及び戸籍関係の処理について」によって在日朝鮮人及び台湾人は一律に日本国籍を奪われることとなった。講和条約自体には、在日朝鮮人等の国籍についての規定はないが、戸籍を基準として内地に戸籍の無い者は内地に在住している者を含めすべて日本国籍を喪失するというのが通達の立場であった。そうした在日朝鮮人の国籍の表示については、当初はすべて「朝鮮」とされていたが、後に日本政府は「韓国」への書き替えを認めた。そして、やがて「朝鮮」は単なる記号であるが「韓国」は大韓民国の国籍を表しているという統一見解を示すようになった。したがって、外国籍の在日朝鮮人は現在も「朝鮮籍」と「韓国籍」に分かれているのだが、前者は朝鮮民主主義人民共和国の国籍を指しているとはいえないのである。

 2)在日朝鮮人の国籍問題の判例と学説

  当初下級審の判例は,サ条約の発効により国籍を失うものの範囲等につきかなりの揺れがみられた。最高裁大法廷1961年4月5日判決は前記民事局長通達の立場を追認したと見られる。この判決は戦前に朝鮮人男性と婚姻した女性がサ条約発効後に離婚した事例である。最高裁は、平和条約によって国籍を失うのは「朝鮮に属すべき人」であるとし、この「朝鮮に属すべき人」とは結局「朝鮮戸籍令の適用を受け、朝鮮戸籍に登載された人」であるとする。この女性は婚姻により朝鮮戸籍に入ったことにより法律上は朝鮮人となっており、サ条約の発効と共に日本国籍を失うとした。また、国籍喪失の根拠に関して最高裁は、憲法は領土の変更に伴う国籍の変更については、条約で定めることを認めた趣旨であるとして、やはり前記通達の立場を肯定している。

  上記最高裁判決は、もと日本人であり身分行為により朝鮮人とされた者にかかわる事例であるが、そうした身分行為によらない血統的な朝鮮人であったものが日本国籍の確認を求める訴えをおこしたケースもある。1969年に京都地裁に訴訟を提起した宋斗会のケースが初めと見られ、その後金鐘甲、趙健治の訴訟が続いた。しかし金鐘甲事件の福岡地裁判決が上の最高裁判決をあげ、その後判例の変更はなく、特段の事情のないかぎり下級裁判所としてはこれに従うべきものと原告側の主張を一蹴しているなど、いずれも原告の訴えは軽く退けられている。

  サ条約で日本国籍を失う者の範囲については、上記最高裁判例自体にも立場の異なる補足意見や少数意見があり、学説でも必ずしも判例の多数意見が全面的に承認されていたわけではない。しかし国籍喪失の根拠の問題については、判例の立場はまた学説の大勢でもあったといえる。ところが、この問題について大沼保昭は長大な論文で上記最判と通達の立場に対し、ラディカルな批判を行なっている。大沼は、判例・多数説は旧来の「領土変更に伴う国籍変更」の枠組みで考えているところに根本的な誤りがあり、在日朝鮮人の国籍の問題は「朝鮮の独立に伴う国籍処理」の問題であって、朝鮮民族を主体とする民族自決の枠組みで把握されるべきものであるとする。結局、彼は戸籍の基準によって朝鮮人の日本国籍を喪失させた前掲通達はサ条約の執行という意味をもたないから、法律より下位の法形式による国籍処理として憲法10条違反であり無効であると主張する。したがって彼によれば、在日朝鮮人は依然として日本国籍を有していることになるのである。

 3)在日朝鮮人への国籍選択権に関する奥田提言と本条約8条

  奥田安弘はこうした在日朝鮮人の国籍問題に関して大沼説には与せず、判例・多数説同様在日朝鮮人の日本国籍喪失の事実は認める立場である。しかしながら彼は、本来は在日朝鮮人に国籍選択権を認めるべきであったとして、新たに在日朝鮮人の国籍問題を解決する方法として特例法(と条約)により、在日朝鮮人に国籍選択権を付与することを具体的な法律案の形で提言している。奥田の提言は、まず日本と韓国の間で協定(条約)を締結し日本政府が在日朝鮮人に届け出による日本国籍取得を認めることと、韓国政府がその届け出をした者の二重国籍を認める事を規定する。そして特例法を制定し一定期間内に法務大臣に届け出をすることで、在日朝鮮人の日本国籍取得を認めるという内容である。

  在日朝鮮人に対する日本国籍付与の提案はこれまでにも例があるが、奥田案は従来の提案と異なり「帰化」ではなく、特例法と協定による点、また重国籍を容認している点に特徴があると考えられる。

  さて、本条約8条はアイデンティティのひとつである国籍を不法に奪われない趣旨を含んでいる。こうした国籍を奪われない権利は世界人権宣言の15条にはあるが、国際人権規約には存在していない。(国籍を取得する権利はB規約24条3項にある。)そこで、上記金鐘甲等の裁判における原告側の主張や大沼説では世界人権宣言が援用されている。本条約がある現在では、本条約8条の趣旨を、奥田提言の根拠のひとつに考えることができるだろう。

 4)奥田提言への留保点

  私が奥田提言に対して留保を付ける点は、第一に奥田が韓国との協定だけを考えている点である。もちろん韓国としか国交がない現状では、奥田案が現実的ではある。しかし、奥田案がモデルにしている1965年の日韓法的地位協定が「韓国籍」と「朝鮮籍」の差別・対立を招いたことに鑑みれば、日本と朝鮮民主主義人民共和国との国交の回復後に、両国との協定を締結するとすべきだろう。また第二に、奥田提言に関しては在日朝鮮人の側から「同化主義」であるとの批判が強いことが考えられる。私は奥田提言には「同化主義」といった意図はないと考える。しかし、「日本人と同等に扱かう」趣旨の通達等従来の政府の在日朝鮮人に関する政策には「同化主義」と呼ばれて仕方がないものがあることは否定できず、したがって奥田提言のような政策であってもこのような批判は避けられないだろう。少しでもそうした批判に実践的に答えるためには、在日朝鮮人教育が日本の学校で普通に行なわれるようになっていることが必要である。とりわけ日本籍朝鮮人については、従来の政府見解に従ってもマイノリティと考えられるのにもかかわらず、これまで教育の場で顧みられることがほとんどなかった。しかし、奥田提言が実施されるにあたっては、その前提としてまさに日本籍朝鮮人に対する教育が十分に行なわれていることが当然必要なのである。なぜならば、提言により日本国籍を取得したものはやはり日本籍朝鮮人となるのであり、彼等に在日朝鮮人としてのアイデンティティを意識した教育が与えられないのならば、それはやはり「同化主義」という批判を免れないからである。

 5)現行国籍法の重国籍防止方針の問題と本条約8条

  1984年の国籍法改正で従来の父系主義を改め、父母両系血統主義が採用された。この改正に際して、重国籍者の増加を防止するために新たに「国籍選択制度」が導入された。この場合の「国籍選択制度」とは重国籍となった者に日本か外国かどちらかの国籍の選択をさせることにより重国籍の解消を図る制度である。この制度については導入時から批判があったが、近年さまざまな立場から批判論が提出されている。簡単に言えば、この制度が前提としている、いわゆる「国籍単一の原則」に関して根本的な疑問が強くなってきているのである。果たして、国籍は単一(あるいは唯一)であることが本当に最善といえるだろうか。永田誠や芹田健太郎はこうした国籍単一の原則の存在を否定的に解している。国籍単一の原則は個人には国籍が必要であり(無国籍の否定)、かつまた国籍は一つでなければならない(重国籍の否定)の二つ部分からなると解される。個人の権利としての国籍の観点からすれば、無国籍の否定は国際人権規約にも本条約にも規定されている重要な権利であるが、重国籍の否定については積極的に推進すべき理由は存在しない。それどころか、重国籍の解消とは一方の国籍を個人から奪うことであり本条約8条に違反すると考えられる。もちろん、一つしかない国籍を奪うという場合と、複数ある国籍のうちの一つを奪うという場合とでは問題の深刻さの程度は異なるだろうが、だからといって、「国籍選択制度」が問題にならないとはいえない。また8条の文言にこだわれば、8条は国籍それ自体を保護しているのではなく、「国籍を含むアイデンティティ」の保持を要請しているのであるから、重国籍者としてのアイデンティティを奪われることは、単一国籍者の場合と同様に重要な問題であるという解釈も可能である。波多野もいちおう重国籍者の国籍選択制度は本条の問題になりうるとするが、重国籍者を減らすという大きな目的のための措置だから「不法な干渉」にはあたらないとする。しかしすでに触れたように重国籍者の減少が正当な目的であるかが問われているのである。

  在日朝鮮人にとっても重国籍と国籍選択制度は大きな問題である。在日朝鮮人の中でも85年の国籍法改正以後出生による重国籍者は増加しているとみられる。また外国籍の朝鮮人の婚姻について最近では、日本人との婚姻が8割に達することからも重国籍者が増加していくとみられる。そうした在日朝鮮人の重国籍者がどの国籍を選択していくかという動向が、今後の在日朝鮮人社会に大きな影響を与えると考えられる。しかし在日朝鮮人の場合についても重国籍者にどちらかの国籍を選択させる積極的なメリットは考え難い。むしろ、重国籍の立場は一方で国政選挙権を含む完全な市民権を持ちながらもう一方で朝鮮とのつながりも明示的に保持し続けられるというメリットがある。李英和や山内敏弘もこうした選挙権問題についての重国籍のメリットを主張している。山内も指摘しているように日本国憲法においては、重国籍の大きな問題である兵役義務の衝突(どちらの国の鉄砲をかつぐか)の問題は起こらない。一般に、重国籍者の増加は徹底した平和主義と国際協調主義を貫く日本国憲法の精神からもふさわしいものであって、排斥すべきものではないと言えるだろう。

 6)家族ぐるみ「帰化」方針の問題点と本条約8条

  国籍法の18条は、15歳未満の者が「帰化」の許可の申請等の届け出をする時は法定代理人が行なう旨を定めている。15歳以上の場合は自分で申請しないと無効とされ、逆に15歳未満の場合は本人の申請は無効であり、必ず法定代理人が行なわなければならない趣旨であるとされている。法定代理人が申請して「帰化」が許可された場合、本人が成人の後にそれを取り消すことができる制度は国籍法には無いので、結局、法定代理人である親が子どもの国籍を不可逆的に決定してしまうことになり、子どもの側から考えると問題であると思える。さらに現行の「帰化」実務では、「家族ぐるみ『帰化』」が法律の根拠なく奨励されているのである。田中宏はこのことを「帰化」の法外要件のひとつであると指摘している。本来、「帰化」は個人が行なうものなのだが、実際には家族がある場合は個人では許可されず、「家族ぐるみ」でないと許可されないのである。また、このために国籍法8条1号の簡易「帰化」がフライング気味に運用されている。つまり、未成年者である子は、「帰化」の能力要件等を充たしていないのだが、親と子が同時に申請した場合には、子は親が「帰化」した時点で即時に日本人の子となるとされて、能力要件等が免除され、親子同時に「帰化」が許可されているのである。

  こうした制度や運用は、家族は同一の国籍であるべきであるということを前提とした善意から行なわれていると見られるが、結果として子どもは親の付属物とされていることになり、本条約8条や、また子どもが権利の主体であるとする本条約全体の精神からも問題があるだろう。もちろん、親も自分の子のためによかれと考えて家族ぐるみの「帰化」を決断するわけで、その主観的善意は疑えないが、しかし親がすべてを決定してしまうというのは憲法で否定された家制度の発想につながると思われる。

  さて、このような家族の国籍は同一であるべきであるという前提は絶対に正しいのだろうか。家族の国籍の問題は、当然ながらその家族がそれぞれの個人の意志を踏まえて決定することであり、その結果同一の国籍になるか異なる国籍になるかについて、行政が介入すべきことではないだろう。家族の国籍が同一でなければならないというのは、上述の国籍単一の原則から重国籍を否定するというのと同じ種類の思い込みではないだろうか。重国籍の防止に関してはまだいちおう国際的な根拠があったのであるが、家族の「国籍同一の原則」についてはそうした根拠は見当らない。日本政府は、個人の国籍は一つであり、家族の国籍も同一であることが望ましいと考えていると見られる。その延長上に、国全体でも国籍は同一であることが望ましいという考えが隠れてはいないだろうか。

 

3.在日朝鮮人と名前の問題

 1)在日朝鮮人の名前

  在日朝鮮人のアイデンティティの保持に関して、名前の問題もまた大きな意味を持っている。かつての「創氏改名」政策は、国家が制度的に民族のアイデンティティの象徴である名前を奪った点で、現時点で評価すれば明確に本条約8条に違反するものであったといえる。ところが、周知のように現在も在日朝鮮人の多くは日本的名前の通称を使用している。例えば大阪府立外教調査(1994)では本名使用率はわずか12%程度である。

 また1984年の神奈川県の調査では、在日中国人ではほぼ82%が本名を使用しているのに対し、朝鮮人はわずか8.4 %しか本名を使っていないという対照的な結果が出ている。こうした異常に低い本名使用率は日本社会のある種の差別性を表現していると考える事ができる。しかしこのような在日朝鮮人の名前の問題は、戦前とは異なって法的に強制されているわけではないし、具体的に名前の権利を示した国内法令はないので、これまでは法的に問題とすることは難しかった。しかし本条約8条が「名前を含むアイデンティティ」の保持の権利を規定しているために、このような在日朝鮮人の名前の問題も法的権利として構成されやすくなったと考えられる。まず簡単にこれまで起こった在日朝鮮人と名前に関する訴訟を振り返ってみよう。

 2)在日朝鮮人と名前に関する訴訟

  こうした訴訟で最も有名なものは小倉在住の朝鮮人である崔昌華(チォエチャンホァ)牧師が提起したNHK日本語読み訴訟である。1975年の9月に放送されたNHK北九州放送局のニュースで、事前に崔昌華の読み方は(チォエチャンホア)であると申し入れしていたのにもかかわらず、NHKは「サイショウカ」と日本語読みで放送した。崔昌華牧師はNHKに抗議したが受け入れられなかったので、同年10月3日NHKに対し人格権侵害による損害賠償請求の訴訟を提起した。この訴訟は最高裁まで争われ、最高裁は、人は他人からその氏名を正確に呼称されることについて、不法行為法上の保護を受けうる人格的な利益を有するものとしたが、在日韓国人の氏名を日本語読みによって呼称する慣用的な方法が是認されていた社会的状況の下では違法とはいえないとした。原告は上告理由にB規約27条のマイノリティの権利を援用しているが、判決はこれについては触れていない。

 次に、裁判所を通して自らの民族名を取り戻した日本籍の在日朝鮮人達の事例を見ておこう。外国籍の在日朝鮮人が、日本国籍を取得する方法は現状では国籍法による「帰化」しかない。ところが、「帰化」に際して日本的氏名にすることを実質的に強制する行政指導が行なわれていたのである。このことも、現時点で評価すれば現代版「創氏改名」であり本条約8条に違反するといえるだろう。そこで「帰化」により日本国籍を取得した朝鮮人が、当時の指導に従って日本的氏名を本名としたが、後に民族的アイデンティティに目覚め元の民族名を取り戻そうと家裁に申し立てを行なう事例があいついで起こったのである。この場合民族名をとりもどすためには、戸籍法107 条により氏名の変更を家裁に申し立てることになる。京都の朴実(パクシル)氏の1987年1月の再度の申し立てに対して、京都家裁は、85年の国籍法の改正に伴い帰化申請の手引きから日本的氏名の事項が削除されたことや朴姓が社会的に定着している等としてこれを認容した。また、同様にして民族名を回復した鄭 満(チョンギマン)氏は民族名を正しく呼称してもらうために戸籍に傍訓をつけることを区役所に求めた。しかし名については認められたが、姓については前例がないと拒否されたので、1992年9月に家裁に戸籍訂正許可申し立てを行なった。これに対し福岡家裁は「氏の振り仮名記載には法的根拠がなく、認めなかったからといって憲法上の人格権の侵害にはあたらない」として却下している。しかし、本条約8条の精神に照らせば、戸籍に朝鮮語読みのふりがなをつけることは認められるべきだろう。現に住民票では氏名ともふりがなが打たれ、学校の指導要録でも後述のように外国人の本名のふりがなに関しては、なるべく原音に近いようにうつことが原則とされるようになってきたのである。

 3)在日朝鮮人教育と名前

  以上、在日朝鮮人の名前が法的に問題になった事例を検討してきたが、こうした事例は重要な問題を含んでいるがやはり限界的ケースである。在日朝鮮人の名前に関して最大の問題は、最初に触れたように在日朝鮮人の本名使用率の低さであろう。この問題は在日朝鮮人の問題というより、日本社会全体のありかたにかかわる問題だろう。ここでも重要な解決の手段は教育、広義の在日朝鮮人教育を充実することということになるだろう。すでに1970年代から大阪を中心に在日朝鮮人の「本名を呼び名乗る」実践が展開されている。また大阪府等の行政も「在日韓国・朝鮮人問題に関する教育の指針」を出し、その中で本名の尊重にも触れられている。本条約8条や30条また29条の趣旨を実際の教育の場で生かしていくことが大きな課題であろう。

 4)指導要録における在日朝鮮人の名前について

  学校現場での在日朝鮮人の名前をめぐる具体的な事例として、指導要録の記入の問題等をとりあげてみよう。滝沢順他著『児童の権利条約と学校の指導』の中に、在日朝鮮人の名前に関する興味深い2例のQ&Aが載っている。1件目は入学を機に子に本名を名乗らせたい在日韓国人の親が、予想されるいじめに対し学校がどんな配慮をしてくれるのかという質問である。答えは本条約8条をあげ、チマ・チョゴリを来た生徒への嫌がらせ等、外国人に対する偏見や差別を許してはならないと結ばれている。もう一件は、逆に通称で通してきた在日韓国人の高校生が卒業証書も通称で記入してもらいたいがどうかという質問である。答えは、公式な文書である卒業証書は本名を書かざるを得ないが、呼名の時に通称名を用いる等の細かな配慮をすれば、通称名で通るとする。ここでも本条約8条が援用され、これは児童が名乗りたいと思う氏名について、他から干渉されない権利も保障しているとする。指導要録の氏名欄も本名を記入し、ふりがなは母国語に近い読み方で片仮名を用いて記入するともある。

  さて、このQ&Aは本条約の趣旨を正しくとらえているだろうか。本名派にも通名派にも配慮した、たいへんニュートラルな解答で一見申し分ないようにも思えるが、やはり私はこの解答の立場には問題があると考える。この解答のような立場で指導がなされた場合には、おそらく冒頭にあげたような在日朝鮮人の本名使用率は変わらないかますます低下していくと考えられる。2番目の問いへの解答には、生徒の意見をたてに本名についての指導を避けたいといったニュアンスが感じられる。子どもや親の意志に反して一方的に、教員側の意見を押しつけてはならないのは当然だが、学校生活最後の大きな教育の機会である卒業式を控えて、在学中は通名を通した生徒についてももう一度名前について真剣に話しあってみる姿勢が必要とされているのではあるまいか。いささか理想論になるが、最終的に通名で呼名を行なうことになった場合でも、卒業を前にしてあらためて在日朝鮮人の立場にについて深く考える機会を持つことは、決して無駄ではあるまい。この解答のような立場では、なぜ指導要録の本名のふりがなをなるべく「母国語」に近い表記にするようになったのかが一向に明らかではない。このふりがな原音表記については、大阪府立高校では1994年度からの指導要録の改訂で出てきたものであり、全国的にも昔から行なわれていたものではないのである。朝鮮語も中国語もわからない通常の教員には、この原音表記はかなり煩雑な作業になるというのに、このような方針が行なわれる理由は言うまでもなく、在日朝鮮人等の子どもの民族的自覚を高め、あわせて日本人子どもの人権意識を高めるよすがとするためであろう。このような方向は、「名前を含むアイデンティティの保持」を保障した本条約8条や、29条c)の精神に合致していると考えられる。上記の書の立場は、本条約の政府報告書の立場と似ていて、基本的に「日本人と同じ教育」の保障の段階に止まっているように思われる。



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