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TITLE:  大阪府の評価・育成システムについて
AUTHOR: 与田  徹
SOURCE: 大阪教法研ニュース 第207号(2003年4月)
WORDS:  全40字×59行

 

大阪府の評価・育成システムについて

 

与 田   徹

 

  大阪府の「評価・育成システム」、は、府立高校職場でずいぶんと話題となった「疑問・質問百連発」などを引き合いに出すまでもなく、ごくふつうに考えて問題の多いものです。

  そもそも教育の仕事、各校、各教職員の実践についての、評価があって悪いとは、私は思っていません。明示されるされないにかかわらず、私たち自身が自分の仕事、授業のでき、行事の成果などが、生徒や、同僚からどう評価されているか、自分の課題が何であるかを実は絶えず気にしているからです。これを、独りよがりや思いこみではなく、客観的に評価し、反映するシステムがつくれるなら、それも良いのでは・・とも思います。現場の、個々の教職員の自主性・自発性を引き出し、自己の責務への思いや自覚を深めるものとなるならば、それはむしろ積極的に進められるべきものでしょう。

  しかし、大阪府のこのシステムはそうではないようです。

  管理職が個々の教職員をS,A,B,C,Dの5段階に評価し、「絶対評価」といいながら、これを賃金などの処遇に反映する段階で結局は相対評価していく、というやりかたは教育の現場を暗くします。熊沢誠さんが「能力主義と企業社会」という本の中で「ゆとり・仲間・自主性」を職場の大切な要素としてあげられていましたが、「評価・育成システム」、私たちが勤評・成績主義と呼ぶ、この制度の導入は確実に、「ゆとり」を奪い、「仲間」をバラバラにし、「自主性」を押さえつけるものだという気がしてなりません。

  それは結局、教育を台無しにします。私たちの社会にとって「恐ろしいこと」だと思わなければなりません。

  例えば、「成果」をはかる指標として「自己の目標を設定する」というのがあります。しかし、これには分掌、教科の目標があり、その上に学校の目標があり、さらに府教育委員会の「指示事項」が前提です。これでは結局、ときどきの行政府の意向に従うことを最優先し、それが自己の良心や真理・真実にてらしてどうかという判断は二の次にならざるをえません。それが「職務」というとらえ方もあるのでしょうが、私たちの職務は、現行の学校教育法では「教諭は児童の教育をつかさどる」です。それ以前の「訓導は校長の命を受け・・教育をつかさどる」ではありません。教育の仕事は、国民全体に直接の責任を負い、不当な支配に服することなく(誰かの命令ではなく)真理・真実と良心に基づいてのみ行われるべきであるという基本理念そのものが脅かされているように思います。昨秋示された日弁連の教育基本法の中教審での論議に関わる意見書のなかで、東京都の同様の制度を基本法第10条違反との関連で取り上げているのは至極当然のことのように思います。

  評価の客観性についても不可能だということは明白です。東京でも評価者の評価能力の不足ないし欠如が一番問題になっていますが、大阪でも「D評価の校長にDと評価された教職員の評価はほんとにDか?」というほとんど論理学の問題のような冗談がはやっています。民間でも(人の評価という)「神の御技(みわざ)を行うことにおそれをいだきながら行わなければいけない」そうで、富士通の失敗を大きく取り上げた週刊ダイヤモンド特集や日経「やさしい経営学」の連載など管見する限りでも一時の熱は冷め、見直しの方向です。この大阪の成績主義も2006年実施の公務員制度の抜本改革に連動し、その露払い的な役割を果たすものだったようですが昨年末には、その成績主義の導入そのものが公務員の仕事の性格にあわないので見直し、との観測記事が読売の一面で報道されています(政府は否定)。

  いずれにせよ、多くの国民が、このような制度を導入したほうが「先生たちは少々きゅうくつになっても、うちの子の学校はよくなる」と考えるのか、「いや、先生たちどころか、学校がひどいことになり子どもが台無しにされる」と考えるのかが、帰趨を決めることになるのだけは間違いないでしょう。

  そしてこの大事な勝負に関して言えば、具体的に、学校がどうなるのか子ども生徒がどうなるのかを考えてさえもらえば確実にわかってもらえる、と思っているのですが・・・・。

 


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