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TITLE:  社会科授業における公正中立の要請と教員の不利益処分(最高裁判所平成23年(行ノ)第31号分限免職処分取消等請求事件 意見書)
AUTHOR: 羽山 健一
SOURCE: 2011年8月15日
WORDS:  


最高裁判所平成23年(行ノ)第31号
分限免職処分取消等請求事件 意見書


社会科授業における公正中立の要請と
教員の不利益処分



2011年8月15日
羽 山 健 一


目   次

第1 基本的視点
1.問題の所在
2.なぜ,公正中立を論ずるのか

第2 教育における公正中立
1.語義
2.法令等の規定
(1) 教育基本法第8条
(2) 中立確保法
(3) 学校教育法第36条,第42条
(4) 学習指導要領
(5) 日本国憲法,教育基本法および学校教育法に定められた教育の根本精神
3.公正中立と社会共通の価値
4.授業における公正中立概念の整理
5.具体的場面での公正中立性の判断
(1) 特定の個人名,法人名をあげることが公正中立の要請に反するか
(2) 教師が自分の意見を述べることが公正中立の要請に反するか
(3) 不適切な表現が公正中立の要請に反するか
(4) 目黒高校事件における公平中立の判断

第3 本事案の検討
1.戒告処分
(1) 公正中立違反という判断の非合理性
(2) 教育内容及び教育方法の是非についての審理
(3) 処分事由としての誹謗について
2.分限免職処分
(1) 「三度,同種の非違行為を繰り返した」について
(2) 「自己の見解の正当性に固執」について
(3) 総合的検討を行っていない
(4) 判断過程に合理性を欠く

おわりに




第1 基本的視点

  本件は,中学校の社会科教員が,その行った授業等を理由に,戒告処分,研修命令,分限免職処分を受けたことについて,それらの取り消し,無効確認等を請求した事案である。
  本書面では,申立人(一審原告,控訴人)の行った授業が,戒告処分および分限免職処分の処分事由とはなり得ないこと,ならびに,それを処分事由に該当するとした東京都教育委員会(処分権者,一審被告,被控訴人,以下「都教委」)の判断が,合理性の観点から許容される限度を超えた不当なもので,裁量権の逸脱,濫用が認められる違法なものであることを述べる。
  本件で主要な論点となったものは,授業における公正中立性であり,これに反することが処分事由になっている。そこでまず,この公正中立という概念について整理し,それに反するとはいかなる状態をさすのかを検討する。そのうえで,本件戒告処分および分限免職処分について検討し,申立人の行った授業が公正中立の要請に反するものではなく,処分事由に該当するものではないことを述べる。


1.問題の所在

  本件戒告処分と分限免職処分の両方で,その処分事由とされたのは,申立人の行った授業が公教育の公正中立性の観点から問題があるということであり,このことが本件の特徴である。
  本件の処分事由は,私生活上の行為ではなく,職務に関連する行為であった。職務関連行為といっても,勤務実績不良,職務懈怠,職務命令拒否などではなく,教師の教育活動,とりわけ授業そのもののあり方が問われている。これは,教師独特の処分事由といえる。さらに,授業のあり方が問われているといっても,学習指導要領違反,教科書使用義務違反が問われたわけではなく,また,間違った内容を教えるとか,学習指導能力が劣っていることが問題となったのでもない。つまり,処分事由とされる事実が明白に法令に抵触するような行為ではない。結局のところ,申立人の行った授業が,公正さ,中立性を欠くという理由で処分が行われたのである。
  申立人は,中学校の第3学年における社会科の授業の際,生徒に対し「3学年,紙上討論1」と題する資料(以下「本件資料」)を配布したが,その資料の中に,特定の都議会議員及び出版社の名前を挙げて「国際的に恥を晒すことでしかない歴史認識を得々として嬉々として披露している」「歴史偽造主義者達」「侵略の正当化教科書として歴史偽造で有名な扶桑社の歴史教科書」(第一審判決21頁)という記載が含まれていることが問題となった。
  本件戒告処分は,本件資料を授業の教材として使用することは,「公正,中立に行われるべき公教育への信頼を直接損なうもの」(第一審判決21頁)であるとして行われたものである。また,本件分限免職処分は,本件戒告処分とそれ以前の2回の懲戒処分,研修期間中の言動態度に照らして,申立人が「中立,公正に教育を行うべき教育公務員としての自覚と責任感を欠く」(第一審判決26頁)ことが処分事由となった。
  本件戒告処分および分限免職処分のように,教師の教育活動,とりわけ,授業の公正さ,中立性が問われた事例はそれほど多くない。いわゆる指導力不足教員についての認定や分限処分を別とすれば,授業中の教師の指導が公正中立の観点から処分事由となった事例として,@武佐中学校事件(釧路地裁昭和29年(行)第5号,昭和29年(行)第6号 免職処分審査請求に対する判定処分取消請求事件 昭和32年2月27日判決),A目黒高校事件(東京地裁昭和40年(ヨ)第21885号 地位保全仮処分申請事件 昭和47年3月31日判決 ),B山口県公立中学校事件(最高裁 昭和53年(行ツ)第2号 懲戒処分取消請求上告事件 昭和59年12月18日第三小法廷判決),C伝習館高校事件(最高裁昭和59年(行ツ)46号 行政処分取消請求上告事件 平成2年1月18日第一小法廷判決),D挑山中学校事件(最高裁昭和60年(行ツ)第154号 懲戒免職取消請求上告事件 平成2年2月20日第三小法廷判決)等がある。
  これらの事例のうち,D挑山中学校事件を除くと,その処分事由は,勤務実績不良,職務懈怠,職務命令拒否,独善的行動,協調性の欠如,社会常識の欠如など多岐にわたり,授業の問題は複数ある処分事由の一つでしかない。これに対して,本件戒告処分における処分事由は,授業の公正中立違反であり,これが唯一の処分事由なのである。また,本件分限免職処分における中心的な処分事由も授業の公正中立違反であり,なおかつ,その他の分限処分事由もその授業に端を発したものである。


2.なぜ,公正中立を論ずるのか

  本件は,授業の公正中立違反を理由になされた不利益処分の適否が争われた事案であるから,その審理においては,申立人の授業が公正中立に反するものであったかどうかの判断が決定的に重要な意味を持つはずである。
  また,本件分限免職処分において,申立人が授業以外の通常業務で支障をきたしたという事実は認められておらず,もっぱら,授業における言動とそこから派生する研修での言動を理由に適格性欠如の判断が為されている。ということは,申立人の授業は,その授業以外の業務における良好な実績を考慮しても,その良好な実績を帳消しにしてしまうほどの,致命的な問題性を有していたということになる。そのような致命的問題とされたのが,申立人の行った授業が公正中立の要請に違反するということなのである。
  そこで,「授業における公正中立」とはどのような意味を持つのか,また,申立人の行った授業が,いかなる意味で「公正,中立に行われるべき公教育への信頼を直接損なう」ものであるのか,さらに,申立人には「中立,公正に教育を行う教育公務員としての自覚と責任感が欠如している」というのは,いかなる意味であるのかが問われなければならない。論理的に考えると,公正中立の概念の内容を明確にすることなく,申立人の行為がこれに反するかどうかを判断することは不可能なはずである。ところが原審はこうした定義付けの作業を行わないまま,公正中立違反の判断を下している。
  かりに,都教委が,授業における公正中立の概念を恣意的に解釈し,それに基づいて,公正中立違反を理由とする不利益処分を行ったのであれば,それは,教師の教育の自由を侵害するものであり,また,教育に対する不当な支配に当たるものとなる疑いも生じてくる。
  先にみたように,本件は授業における公正中立性が争われた稀な事例であり,類似の裁判例は少なく,この問題についての判断の積み重ねがない。そこで,この問題についての私見をまとめることとし,それが法理論の深化のための一助になればと考える。


第2 教育における公正中立


1.語義

  原審では,公正,中立という概念の定義は為されていないので,言葉の一般的な語義をとらえておく。公正とは「公平で正しい」という意味であり,また,中立とは「いずれにもかたよらずに中正の立場をとること。いずれにも味方せず,いずれにも敵対しないこと。」といった意味である(『広辞苑 第四版 CD−ROM版』岩波書店,1996年)。公正中立とは,この二つの意味を併せたものであり,教育における公正中立とは,とりあえず「教育の内容や方法が公平で正しく,中正の立場をとっていること」をさすと捉えておく。また,公正中立に反する教育はときに「偏向教育」と呼ばれることがある。公正中立は,教育の様々な領域に及ぶものであるから,政治的中立,宗教的中立,文化的中立などは,公正中立の概念に含まれる要素であると考えられる。
  一般的に,「教育」には,教科指導,生活指導,特別活動,さらに,修学旅行など学校の施設外で行われる活動など,学校の行うすべての教育活動が含まれるが,本件は社会科の授業における公正中立が問題になった事例であるので,本書面では,()()()()()()公正中立という言葉を用いる場合でも,社会科授業における公正中立の問題に限定して述べることにする。
  それでは,教育における公正中立とはどのような状態をさすのであろうか,また,どのような状態になれば,公正中立性が侵されたことになるのであろうか。教育の()()()中立の概念をめぐって,次のような整理があり参考になる(渡辺孝三『学校経営管理法』学陽書房,1978年,49頁以下)。
  @ 切断説 
 この説は,教育を政治から引きはなし,教育は政治に関与するべきでなく,そのような状態をもって教育の政治的中立であるとするものである。
  A 多数決説 
 これは,国民の多数が希望しているような政治のあり方に教育を適合させることが,教育の政治的中立であるとする考え方である。特定の勢力のもつ理想なり政策なりが法律として認められた場合は,実際においてそれらの理想なり政策なりが教育に反映することがあってもさしつかえないと考える。
  B 不偏不党説 
 国民の政治的教養を重視し,そのための教育の必要性は認めるが,特定の政党を支持し,またはこれに反対するための政治教育を偏向教育としてしりぞける立場である。これは旧教育基本法第8条第2項の立場である。
  この渡辺による整理について,まず@の切断説は,政治的中立を確保するために教育が政治に関与しないことを求めるものであるが,教育を政治から切り離し,完全な非政治状態におくことは不可能である。また,旧教育基本法第8条第1項は,教育上,政治的教養を尊重することを求めているので,この点からも,教育から政治を切断することはできない。したがって切断説を妥当とすることはできない。次にAの多数決説は,教育も国民の多数の意思に従うべきものと考える説であるが,これには多くの批判がある。まず,時の政権が教育という文化的営みを左右する権限を持つべきではないという批判である。また,現在の国民の選択は未来の子どもたちの幸福や,国民の将来の運命に関わる教育についての選択ではないという批判もある。最後のBの不偏不党説は,特定の政党を支持する教育は,たとえそれが多数派政党を支持するものであっても許されないとする点で,多数決説に対する批判にこたえるものである。しかし実際の授業についてみると,たとえば政党の主張について触れることになれば,その主張に批判的になったり好意的になったりすることは避けられない。したがって,不偏不党説は先の2説に比べ,現実の教育への適用場面において困難を伴うといえる。
  このように,教育の政治的中立は,一義的には確定することが困難な性格のものであることが分かる。当然のことながら,教育の公正中立についても同じことがいえる。


2.法令等の規定

  授業における公正中立を考える上で,授業の在り方に関する次のような法令等の規定を参考にする必要がある。

(1) 教育基本法第8条

  旧教育基本法(処分当時のもの。昭和22年3月31日法律第25号。以下,単に「教育基本法」)第8条第1項は「良識ある公民たるに必要な政治的教養は,教育上これを尊重しなければならない。」と規定し,同条第2項は「法律に定める学校は,特定の政党を支持し,又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。」と規定する。同条は,政治的教養が教育上必要なことを定めるとともに,学校における党派的政治教育の禁止を定めている。党派的政治教育禁止の趣旨は,公教育における政治的中立性の確保にある。
  教育基本法制定当時,辻田力,田中二郎による解説書は,同条の趣旨を次のように説明した。
 「国民の政治的教養と政治道徳の向上がよき民主政治が行われるためぜひとも必要である。(中略)
 良識ある公民たるに必要な政治的教養にはいかなるものがあるであろうか。第一に民主政治,政党,憲法,地方自治等,現代民主政治上の各種の制度についての知識,第二に現実の政治の理解力,及びこれに対する公正な批判力,第三に,民主国家の公民として必要な政治道徳及び政治的信念などがあるだろう。(中略)
 学校教育本来の目的を達成するため,その中に一党一派の政治的偏見が,持ち込まれてはならない。又政治は現実的利害に関する問題であるので政党勢力が学校の中にはいりこみ,学校を利用し,学校が政治的闘争の舞台となるようなことは厳にさけなくてはならないところである。学校の政治的中立,超党派性が,学校教育の目的を達するためぜひとも守られなくてはならないのである。」(辻田力・田中二郎監修,教育法令研究会著『教育基本法の解説』国立書院,1947年,109頁以下)
  戦後,文部大臣や最高裁判所長官などを歴任した田中耕太郎は,教育の使命から政治的中立性が導き出されるとして次のように述べた。
 「教育の使命は人間をつくることに存するのであり,A党B党の党員たるに適当な人間を養成することではない。教育の使命は将来自己の良識によっていずれの党派を選ぶべきかを正しく判断し得るような人間を養成すること以上に出るものではない。」(田中耕太郎『教育基本法の理論』有斐閣,1961年,610頁)
  具体的に同条第2項で禁止されるのは,学校が,「特定の政党を支持し,又はこれに反対する」目的をもち,その目的のために行う「教育」ないし「活動」である。そして,その目的のための「教育」とは,政治的教養を高めるための教育を行う上で必要とされる範囲を明らかに超えて,教育内容および教育方法において,特定政党の支持,反対に結びつくものをさすと解される。
  ただし,同項の適用は「特定の政党」というところで限定されるから,同項に反する場合はそれほど拡張されることはないと考えられる。本件各処分で問題とされた授業は,政治に関わるものであるが,特定の政党と結びつくものではないので,申立人を同項違反に問うことはできないし,現実にもこれは処分理由にもなっていない。
  同項は,政治面からみて教育活動として公正中立性を欠くものを限定的に禁止したものであり,政治的中立性に反する教育を定義し禁止したものと捉えることができる。したがって,政治的中立性を保持している教育とは,同項に違反する教育を除いた教育の全般をさす。

(2) 中立確保法

  「義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する臨時措置法」(昭和29年法律第157号。「中立確保法」)は,義務教育に従事する教育職員に対し,特定の目的,手段をもって党派的教育を行うよう教唆,せん動することを禁止し,その違反に対し刑罰を科することとしている。その意図するところは義務教育を党派的勢力の不当な影響又は支配から守り,もって義務教育の政治的中立を確保しようとするものである。
  同法第3条には,禁止される教唆・せん動の諸要件が定められているが,その一つに「特定の政党等を支持させ,又はこれに反対させる教育」を行うことを教唆,せん動することが規定されている。この解釈について,文部省は次のような見解を示している。
 「この教育には児童・生徒を特定の政党等を支持し又はこれに反対する行動に駆り立てるような教育が含まれることはもちろんであるが,その程度にまで至らないでも,児童・生徒の意識を特定の政党等の支持又は反対に固まらせるような教育は,これに該当する。単に,特定の政党を支持,反対させる結果をもたらす可能性があるとか,それに役立つとかいう程度では該当しないが,必ずしも政党等の名称を明示して行う教育には限らず,暗黙のうちに児童・生徒に特定の政党等を推知させるという方法をとる場合にも,該当する場合がある。なお,特定の政治的な立場に偏し,教育基本法第八条第二項の趣旨に反する教育は,本法に規定する党派的教育に限られるものでないことは特に留意せらるべきである」。(昭和29年6月9日,文部事務次官通達,文初地第325号)
  同法は,処罰の要件を厳格に定めており,また,教師を直接に処罰の対象とするものではないが,その教育界に及ぼす影響は大きいものであった。同法の施行により,多くの教師は政治的言動を慎まなければならないという警戒感を強め,教師の教育活動が萎縮し,ひいては政治的教養の教育の沈滞を招くこととなった。

(3) 学校教育法第36条,第42条

  旧学校教育法(処分当時のもの。昭和22年3月31日法律第26号。以下,単に「学校教育法」)は,「中学校は,小学校における教育の基礎の上に,心身の発達に応じて,中等普通教育を施すことを目的」(35条)とし,右目的を実現するため,以下の目標すなわち,「一 小学校における教育の目標をなお充分に達成して,国家及び社会の形成者として必要な資質を養うこと。二 社会に必要な職業についての基礎的な知識と技能,勤労を重んずる態度及び個性に応じて将来の進路を選択する能力を養うこと。三 学校内外における社会的活動を促進し,その感情を正しく導き,公正な判断力を養うこと。」(36条)の目標の達成に努めなければならないものとされている。
  教育の公正中立の問題を考える上で関連のある点は,中学校教育目標として「公正な判断力を養うこと」が掲げられていることである。同様に,高等学校における教育目標には,「社会について,広く深い理解と健全な批判力を養い,個性の確立に努めること」が掲げられている(第42条第3項)。
  これら二つの条項から,「公正な判断力や健全な批判力の養成を妨げるような教育」は許されるものではないという解釈が可能であり,それを公正中立に反する教育ということもできよう。
  教育基本法8条に違反する教育と,学校教育法36条および第42条に違反する教育とは,ともに公正中立に反する教育であり,重なるところも大きいが,異なる点もある。公正な判断力や健全な批判力の養成を妨げるような教育というのは,具体的には,特定の見解のみを示しそれが絶対的に正当であるというような教え方をしたり,特定の思想を植え付けようとしたり,生徒が自分で考えたり批判することを許さないような教育をさすものと考えられる。この教育の問題点は,その教える題材あるいは教育内容が偏向しているというより,むしろ,その教え方,指導方法なり教育方法が不適切であることだと考えられる。

(4) 学習指導要領

  中学校学習指導要領(本件戒告処分当時のもの,文部省告示平成10年12月)には次のような定めがある。
 「内容の指導に当たっては,教育基本法第8条の規定に基づき,適切に行うよう特に慎重に配慮して,生徒の公正な判断力の育成を目指すものとする。」(第2節 社会,第2 各分野の目標及び内容,〔公民的分野〕,3 内容の取扱い)
  これは,授業を行う上で求められる,教育基本法8条,学校教育法36条に定める公正中立性の観点を確認したものである。
  学習指導要領は,これを法規命令と解するか指導助言と見るかにかかわりなく,小・中・高等学校における教育の機会均等と一定水準の維持の目的のための基準であると解することができる。これは,教育の公正中立の規制の基準を定めたものとはいえないが,教育の公正中立の観点を考慮して定められている。こうした学習指導要領の性格を考慮すれば,ここに記載された事項と関連性のない学習内容は,生徒の発達段階からみて不相応なものであったり,少数派の立場や特異な主義主張であったり,あるいは,偏った内容であるという評価を受ける可能性が高い。なお,この時の学習指導要領で提唱された「ゆとり教育」が学力低下を招くという批判を受けて,文部科学省は2003年12月異例の措置として,学習指導要領の一部改訂を行い,学習指導要領が教育課程編成上の最低基準としての性格を持つものであることを明確にした。つまり,学習指導要領に記載されていない事項を,発展的学習等と称してこれを指導することが認められるようになったのである。本件戒告処分はこの改訂後に行われたものである。

(5) 日本国憲法,教育基本法および学校教育法に定められた教育の根本精神

  挑山中学校事件(前掲D事件)の地裁判決は道徳教育に関連して次のように述べる。
 「教育活動が教育基本法および学校教育法に定められた教育の根本精神にもとづいてなされるべきことは義務教育の性質上当然であり,中学校の教師がこれに反する教育をしてならないことは本質的にこれらの法条の要求するところと解される。」(山口地裁昭和52年7月21日判決)
  同判決が引用する法条とは,日本国憲法,教育基本法(前文,第6条,第8条,第10条),学校教育法(第36条),および中学校学習指導要領をさしており,これらの法条に定められた教育の根本精神に反する教育というものを,公正中立に反する教育と解釈することができる。同判決は,引き続いて,公正中立に反する教育について,より具体的に述べている。
 「これらの法条に定められた教育の根本精神が,日本国憲法の基本たる民主主義の政治原理を尊重することにあり,また教育において特定の政治思想乃至特定の政治勢力の主義主張を一方的に価値高いものとして教えこみ或いはそのように理解するよう教育指導することを一般的に排するにあることは,これら法条の文言自体から明らかに看取されるところである。」(同前)
  ここでは,教育基本法第8条の「特定の政党を支持し,又はこれに反対するための政治教育」を禁ずるだけではなく,「特定の政治思想ないし政治勢力の主義主張」をも対象としている点で,禁止される範囲を拡大している。しかし,同判決が「特定の主義主張を一方的に価値高いものとして教えこむ」ことが禁止されるとしている点は,実際の教育が公正中立の要請に反するかどうかを判別する基準として意義がある。


3.公正中立と社会共通の価値

  桃山中学校事件の地裁判決で述べられた「特定の主義主張を一方的に価値高いものとして教えこむ」ような教育が,直ちに,公正中立の要請に反する教育と判断されるわけではない。つまり,一方的に価値高いものとして教え込むことが禁止されるのは,主義主張全般ではなく,偏った主義,あるいは,極端な主張なのである。反対に,たとえば民主主義のような,日本国憲法の基本たる原理は,これを一方的に価値高いものとして教えこむことがあっても,公正中立の要請に反するとはいえない。
  教育基本法も前文で,国家社会のめざす理想の実現は「根本において教育の力にまつべきものである」として,教育の機能を重視している。また第1条で,教育は,「人格の完成をめざし,平和的な国家及び社会の形成者として」の,国民の育成を期して行われなければならないされている。もとより教育は人間の成長発達という個人的要求に応えて行われるものであるが,人格の完成は,孤立した個人が社会と無関係に指向されるものではなく,社会的生活を営むなかで実現されていくものである。そこから,教育の社会的な機能をとらえると,それは,子どもを現在の社会に適応させ,次世代の社会の形成者を育成することにあるということができる。
  したがって,子どもが社会の形成者としての地位を占めることができるように,学校が子どもに対して,現在の社会の価値体系や規範を教え込み,訓練していくことは当然に認められることであり,公教育の原理的使命ともいえる。こうした価値教化(合理的説明ではなく一定の権威に基づいて生徒を感化し善導すること)の機能を持たない社会は,存続,発展していくことができないはずである。
  このようにして,社会存立の基盤となる原理や理念,いいかえれば,「社会共通の価値」は一方的に教え込むことが認められるものであり,そのような教育が,「特定の主義主張を一方的に価値高いものとして教えこむ」ものであるからといって,公正中立の要請に反するということはできない。社会共通の価値を教え込むような教育は,単にそれが許容されるというにとどまらず,そのような教育を行うことこそが教育の使命であり,責務でもあるからである。
  何が社会共通の価値に該当するかは,容易に決することはできないが,さしあたり,日本国憲法の根幹をなす価値,すなわち,平和主義,民主主義の原理は,これに相当するものである。したがって,これらの原理を授業で教えるにあたり,これらの原理とは異なる様々な思想,学説を紹介し,それぞれに長所があり妥当性があるとする価値相対主義的な指導方法をとる必要はなく,これらの原理を普遍的なもの,絶対的に正しいものとして教えることが認められる。かりに,これらの原理に対して生徒が批判することを許さなかったり,その是非について生徒に考えさせる機会を与えないような授業を行ったとしても,公正中立の要請に反することにはならない。たとえば,民主主義は政治哲学的には一つの信条にすぎないが,これを人類普遍の原理として教えることは憲法,教育基本法の理念に適う公正中立な教え方である。また同様に,人権を権利思想の一つとして教えるのではなく,永久不可侵の基本的人権として教えることも,公正な教育であるといえよう。
  田中耕太郎は,教育の社会的機能について次のように述べ,憲法的価値の教え込みを説いていた。
 「国家が教育を通じて民主主義の本質,使命等を明らかにすることは,国民の教育上必要なばかりでなく,民主政治機構の破壊を意図する反民主主義的勢力に対する自己防衛上当然なし得,またなさなければならないことである。」
 「我々は憲法の細目の条文が改正される場合があるにしても,その根本をなす民主主義と平和主義とは時代と場所を超越する人類普遍の原理であるという信念を被教育者に植えつけるのが最も肝要である。」(田中前掲書,605頁,608頁)


4.授業における公正中立概念の整理

  教育において公正中立性を確保しなければならないといっても,教師が特定の定められた教育を行うことを強制されるものではなく,公正中立の要請に適合する教育というのは相当に広い幅を有するものである。そのため,公正中立概念を考える上においては,まず,「公正中立の要請に反する教育」が定義されなければならない。
  ある教育活動が公正中立の要請に反すると判断するためには,第1に,教える題材となる思想,主義主張,見解などの内容が社会常識から見て偏っている,という教育内容についての要件と,第2に,特定の主義主張等を一方的に価値高いものとして教えこみ,あるいはそのように理解するよう指導する,という教育方法についての要件のいずれにも該当するものでなければならないと考えられる。
  この二つの要件に該当するかどうかの組み合わせを整理すると,次のような概念図を描くことができる。横軸は教育内容における偏向の度合いを示すものであり,縦軸は教育方法における教化の程度をあらわすものである。公正中立の要請に反する教育とは,二つの要件に該当することを示す第1象限に位置する教育である。それ以外の,第2象限ないし第4象限の教育は,公正中立の要請に反するものではない。

図 授業における公正中立概念

  この概念図の,第1象限は,偏向した学習内容を強引に教え込むものであり,この部分だけが公正中立の要請に反する教育である。第2象限は,一般的な学習内容を教え込むものである。第3象限は,一般的な学習内容を普通に教えるものである。第4象限は,偏向した学習内容を紹介する程度に教えるものである。
  次に,この概念図の説明のため,いくつかの具体例を挙げる。
  ア 前述の挑山中学校事件(前掲D事件)は,教諭が授業時間中に生徒に対し,毛語録を引用解説し,毛沢東思想の立場から時事問題を解説し,また,毛語録を配布した事例である。その教育内容は学習指導要領を逸脱するもので,中学生に教えるものとしてはかなり特異な教材である。また,その教育方法は,特定の主義主張を一方的に価値高いものとして教えこむものであるので,この授業は第1象限の教育にあたり,公正中立の要請に反するものといえる。
  イ 憲法原理などの社会共通の価値を,一方的に価値の高いものとして教えることは,第2象限の教育にあたり,たとえ,それが強力な教え込みを伴うものであっても,何ら,公正中立の要請に反するものとはならない。
  ウ 複数の政党の政策を並列的に説明することは偏向した内容の教育とはいえない(第3象限に位置する)。しかし,ある一つの政党の政策のみを紹介したり,あるいは,一つの政党についてのみ詳しく教えるような取り扱いは,教育内容が偏っていると評することができる(第4象限に位置する)。このように教育内容が偏っていることに加えて,特定の政党の政策を最も望ましいものとして信じ込ませ支持させるような指導方法を用いた場合は,公正中立に反すると判断される(第1象限に位置する)。


5.具体的場面での公正中立性の判断

  授業における公正中立の要請について,具体的な指導内容の取扱いや指導方法を想定しながら,それがこの要請に反するかどうかを検討する。

(1) 特定の個人名,法人名をあげることが公正中立の要請に反するか

  実名をあげて授業を行うことは,それが名誉毀損やプライバシーの侵害に当たらない限りは,説明のリアリティを高める上で重要なことである。このことは,批判する対象として実名をあげる場合も同様である。学校で使用されている検定済みの教科書にも,実名で批判的な記述がなされることはある。たとえば,「三菱樹脂事件」,「田中角栄元首相の逮捕」,「佐川急便事件」など,とくに珍しいことではない(『政治経済』東京書籍,平成22年2月発行,36頁,64頁,65頁)。これに対して,放送局のNHKはニュース以外では商品名,企業名を出さず,別の言葉に言いかえるようであるが,これは放送の中立性を守り,特定の商品や企業の宣伝や批判にならないようにするための配慮であると考えられる。しかし,このことはそのまま教育の公正中立に当てはまるものではなく,授業で特定の個人名,法人名をあげたことをもって,公正中立の要請に反するということはできない。

(2) 教師が自分の意見を述べることが公正中立の要請に反するか

  教師が授業で,教科書等を引用して説明をするだけではなく,指導内容に関係して,教師自身の見解や感想を述べることは稀なことではないし,生徒からの質問に応じてそれを行うこともある。そして,授業で意見の対立する題材を扱う場合には,教師は対立する意見のどちらか一方の立場に立って説明をしたり,あるいは自分の見解と異なる立場を批判することも実際に行われているところであり,これをことさらに問題視することは現実的ではない。
  教師自身が自分の見解を述べることによる生徒への影響は,教科書等の記載によるそれに比べ,かなり大きなものになることは当然である。しかし,そのことが直ちに教師が自分の見解を一方的に教え込んだことにはならない。それだけでなく,教師がその見解が自分自身のものであることをはっきりと述べ,それが複数の見解の一つであることを明確にすることによって,生徒は対立する意見の相違についての理解を深め,生徒自身がどう考えれば良いかを探求し始める契機となる。このことは中学段階の生徒にもあてはまることである。
  教育基本法第1条は,教育が「自主的精神に充ちた」国民の育成を期して行われなければならないことを述べているが,教師が自分の意見を述べることは,生徒が自主的精神に充ちた人間へと成長していくことに寄与するものである。
  したがって,授業において教師が自分の意見を述べることは,指導方法として十分に意義のあることであり,そのことのみをもって公正中立の要請に反するということはできない。

(3) 不適切な表現が公正中立の要請に反するか

  本件のような中学校の生徒が,精神的にあるいは言語能力の上で発達段階にあり,また,生徒に対する教師の影響力が極めて大きいことを考慮すれば,教師は授業において適切な言葉を使用するよう慎重に配慮しなければならない。また,教師は授業において,客観的,理性的で冷静な表現を用いなければならないのであり,低俗で下品な表現を避けるよう留意しなければならない。また,教師が授業において人の心を傷つけたり,他人の人権を侵害するような表現を用いる自由を持つものではないことは言うまでもない。
  しかしながら,これには限界がある。一般に教師は多様な能力の生徒を相手に授業を行っており,とくに中学校段階の生徒には言語能力の格差が大きく,また,その能力の極めて低い者もいる。
  そこでまず教師は,分かりやすく,理解しやすく話さなければならないため,まわりくどい言い方は避けなければならない。たとえば,いくら正確な表現といっても,「……と認めるに足りる理由はないといわざるを得ない」という類の表現は用いてはならない。「これは良い」,「これは悪い」というように短い表現で断定する。とりわけ,前述した社会共通の価値を生徒に伝えるとき,教師は社会的価値の代弁者として教壇に立ち,生徒と向き合い,毅然とした態度で,正しいことは正しいと断言し,悪いことは絶対に許されないと様々な表現を用いて分からせようとする。このような教師の姿は,一般的には独善的あるいは軽率であると映るかもしれないが,生徒の理解力にあわせることが優先されるのである。
  また,教師は生徒に指導内容を強く印象づけるため,感情をこめ,抑揚をつけて説明をすることが多い。時には,生徒同士の話し言葉,方言,あるいは,役になりきったような台詞回しをしたり,あえて稚拙な表現を用いて生徒の共感を呼び起こそうとすることさえある。それは,ニュースを読むアナウンサーのような,沈着冷静で単調,平板な口調では,教える内容が生徒に伝わらないからである。そのため,教師の表現が,大袈裟で,上品でなく,情緒的,感情的になることもやむを得ない面がある。
  一般的に,授業は,あらかじめ決められた台本に書かれた台詞を,決められたように演じていく活動ではない。生徒の反応を見ながら,その都度,その進め方や話し方を調整していくものである。そして,その中には独善的であったり,大袈裟な表現,低俗な表現,他人の悪口(誹謗)に当たるような表現が混じることもあり得るのである。
  したがって,授業という営みの性格上,公正中立の観点から教師の用いる表現が適切なものであったかどうかについて,その一言一句について厳格な審査を行おうとするのは,まったく無意味なことで現実的ではない。そして,授業の一部に不適切な表現があったとしても,一般社会で法令に反するようなものを除いて,その表現のみをもって教育の公正中立の要請に反すると断ずることはできない。

(4) 目黒高校事件における公平中立の判断

  無断録音した授業内容を根拠とする解雇の適否が争われた目黒高校事件(前掲A事件)では,次のような教育活動が解雇理由とされた。
「(ア) @申請人が,昭和三九年九月四日のホーム・ルームで,「日米安保条約は憲法に違反している。」と述べたこと,A同月一九日の授業において,「米,英,日の例をみても実際はうまくいつているようだが,ほんとうはそうではない。」と述べたこと,B同年一〇月三〇日の授業において「労働が価値以下にあがなわれるから利潤がでる。」と述べたことは当事者間に争いがない。
(イ) 検証の結果(第一・二回)および成立に争いのない乙第七号証の一のA,同二のA,同二のB,同三のB,同四のA,同六のB,同八のB,同一四のA,B(証拠能力の点については,さておき)によれば,申請人がつぎの各授業で,つぎのとおり述べたことが一応疎明される。@同年九月一一日「産業資本は,産業革命が行なわれてから,あと,これと前後して生まれてくる。」A同月一二日「学校は賃金労働者しかつくらない。」B同日「一五世紀や……その当時は絶対主義国家が生まれるころのヨーロッパの内部」C同月一九日「われわれ社会主義経済からいわせれば,」D同年一〇月一六日「目黒高校は万々才だ。」E同月一七日「中国と結んで日本が,中国大陸の六億の民衆と結んだ形で日本というものが存在すると」F同年一一月六日「利潤は労働者から労働を実際の価値より安く買うことから生ずる」との趣旨。「この見解はマルクス経済学と近代経済学とで一致している」との趣旨。G同月一一月一七日被申請人主張には必ずしも明瞭でない部分があるが,同主張と同旨。H昭和四〇年一月九日被申請人主張と同旨。I同月二三日「人はガラスをこわせば,弁償しなければならない。ところが,組合がストライキをすると……会社は契約しているわけで……組合に損害賠償できない。」」
  この事件では,申請人の授業内容が教育基本法第8条第2項の禁止する政治教育,政治活動に当たるかどうかが争点の一つとなったが,東京地裁は次のように述べ,授業内容を根拠として行われた解雇が有効とは認められないとした。
「申請人の前記各日時における教授内容は高校教育の内容として,言辞軽率に過ぎる部分もあるが,これを全体として観察すれば,未だ前記法律の禁止する政治的活動とはいゝ難く(特に前記Cの授業内容については,前記乙第七号証の二のBおよび検証の結果(第二回)によれば,申請人は修正資本主義と社会主義の是非について,今日はこの結論を出すところではないと述べ,その結論を留保していることが一応疎明され,他に右認定を左右するに足る疎明はない。),又その教授内容の誤謬も直ちに解雇に値するほどのものとは認められない。」
  この事例は,教育基本法第8条第2項に定める政治的中立性が問われたもので,本意見書で述べる,教育における公正中立の問題が扱われたものではない。しかし,その政治的中立性の判断において,教育内容やその取り扱い方などを考慮し,表現について「言辞軽率に過ぎる部分もある」としながらも,中立性の範囲内にあるとしたことは,中立性の判断において,表現のまずさにとらわれて判断してはならないことを示唆している。


第3 本事案の検討

  本件戒告処分および分限処分の処分事由となった申立人の授業について,主に公正中立の観点から検討し,これらの処分の違法性について述べる。


1.戒告処分

  申立人は,平成17年6月下旬ころから同年7月上旬ころの間,中学校における社会科の授業の際,生徒に対し,「3学年,紙上討論1」と題する資料を配布したが,都教委は申立人の本件資料の作成,配布行為が信用失墜行為(地方公務員法33条)に該当するという理由で,平成17年8月30日,戒告処分(「本件戒告処分」)を行った。

(1) 公正中立違反という判断の非合理性

  原判決が引用する第一審判決によれば,戒告処分の対象となる事実は次の通りである。
 「本件資料の中には,特定の都議会議員及び出版社の名前を挙げて「国際的に恥を晒すことでしかない歴史認識を得々として嬉々として披露している」「歴史偽造主義者達」「侵略の正当化教科書として歴史偽造で有名な扶桑社の歴史教科書」との記載が含まれている。これらの表現は,ことさらに特定の個人及び法人を取り上げて,客観性なく決めつけて,稚拙な表現で揶揄するものであり,特定の者を誹謗するものであることは明らかである。」(第一審判決20頁,21頁)(原審において「客観性なく決めつけて,稚拙な表現で揶揄する」とあるのは「揶揄しつつ貶める」に改められた。筆者による注釈)
  そして,第一審判決は次のように本件戒告処分を適法とした。
 「中学校は,義務教育として行われる普通教育を施すことを目的とし(平成19年6月27日法律第96号による改正前学校教育法35条),公正な判断力を養うことが目標の一つとして掲げられている(同法36条3項)(「3号」の誤り。筆者による注釈)。そして,原告は,生徒らに学校や教師を選択する余地の乏しい公立の普通義務教育において,教育を行う立場にある。原告が教育する対象である中学校の生徒らは,未発達の段階にあり,批判能力を十分備えていないため,教師の影響力が大きいことを考慮すれば,公正な判断力を養うという上記目標のためには,授業が公正,中立に行われることが強く要請されるのであり,原告が,教師という立場で,特定の者を誹謗する記載のある本件資料を授業の教材として作成,配布することは,公正,中立に行われるべき公教育への信頼を直接損なうものであり,教育公務員としての職の信用を傷つけるとともに,その職全体の不名誉となる行為に当たるし,全体の奉仕者たるにふさわしくない非行であるといわなければならない。」(第一審判決21頁)
  原審は,本件資料の使用が名誉毀損に当たると判断したわけではないし,また,その使用が,教育基本法第8条第2項の禁ずる政治教育に当たると判断したわけでもない。原審は「特定の者を誹謗する」本件資料の使用が「公正,中立に行われるべき公教育への信頼を直接損なうもの」という評価を下しているのである。この判決文は明解な表現とはいえないものの,要するに,本件資料の使用が公正中立の要請に反するものであるから,同行為は公教育への信頼を直接損なう非違行為に当たると判断しているのである。
  しかしながら,原審は,教育における「公正,中立」という概念について,その意義を明らかにしないまま,公正中立違反の判断を下しており,それは論証を抜きに結論を導くものであり,論理性あるいは合理性を欠くものであるといえる。なんとなれば,論理的に考えると,公正中立の概念の内容を明確にすることなく,申立人の行為がこれに反するかどうかを判断することは不可能なはずだからである。
  この点,前述の挑山中学校事件(前掲D事件)においては,授業内容が極端に偏ったものであり,公正中立に反するものであるという判断が比較的容易であり,なおかつ,その第一審判決において,「特定の政治思想や主義主張を一方的に価値高いものとして教えこむこと」が禁止されるという一定の判断基準が示されていた。
  ところが本件は,授業の不公正さや偏向が際立った事例ではないうえに,原審においては,明確な論拠や基準を示すことなく,公正中立に反すると判断したのである。なお,授業で特定の人物名をあげることが直ちに公正中立違反となるものではないことは前述した(第2,5(1))。

(2) 教育内容及び教育方法の是非についての審理

  先に整理をしたように(第2,4),ある教育活動が公正中立の要請に反すると判断するためには,その教育内容が社会常識から見て偏っているものであるという要件と,その教育方法が特定の主義主張を一方的に価値高いものとして教えこむものであるという要件のいずれにも該当するものでなければならない。
  本件資料は,現実の社会に,過去の戦争を侵略戦争ではないと主張する都議会議員や教科書会社が実際に存在することを生徒に伝えて,ひいては,憲法に定める平和主義,民主主義についての理解を深め,これらを保持するための不断の努力の重要性に気付かせることをめざした教材であると考えられる。申立人の授業は,前述した「社会共通の価値」を教育するものであり,本件資料の一部に不適切な表現があるものの,これを全体として考察すれば,その趣旨および教育内容において何ら偏向したり,不公正と評価されるものではない。また,その教育方法においては,強力にその問題性を訴えかける傾向はあるが,もともと,申立人の紙上討論授業は,生徒の意見表明を前提としたもので,一方的に教え込むという性格のものではない。したがって,申立人の授業は教育内容においても,教育方法においても,公正中立違反を問われるようなものではない。
  都教委は,本件授業が不公正なものであることについて次のように主張した。
「(3)控訴人は,古賀都議や扶桑社に対する本件記載は客観的に正しいものであり,正当な批判であって,揶揄ではないと主張する。
 しかしながら,「歴史認識」について絶対的に正しいものなど存在しない。控訴人の主張は,控訴人の歴史認識が絶対的に正しいものであり,古賀都議と扶桑社の歴史認識は完全に誤っているというものであり,これを,普通教育における授業の場で,教師の意見として表現すること自体,問題を生ずるものである。」(控訴審判決37頁)
  これによると,都教委は「『歴史認識』について絶対的に正しいものなど存在しない」として,本件資料の教育内容の是非については検討しないという判断停止状態に陥っている。そのため,申立人の歴史認識が客観的に妥当なものかどうか,あるいは本件資料が教育内容として適切なものであるかどうかという審理を行っていない。なお,授業において教師が自分の意見を述べること自体が公正中立違反とはならないことは前述した(第2,5(2))。
  結局,都教委は,本件資料の使用が,「職の信用を傷つけ,又は職員の職全体の不名誉となるような行為」という懲戒事由(信用失墜行為)に該当するかどうかを検討するにあたり,本件資料を使用してどのような授業が行われたのか,また,本件資料の記載内容の趣旨,目的についての審理を行わないまま,本件資料に記載された不適切な文言のみを取り上げて,授業における本件資料の使用が公正中立違反に当たり,懲戒事由に該当するという判断を下したのである。
  しかし,授業の公正中立性を判断するにあたり,その授業で扱われた教育内容の是非についての審理を行わないことは極めて不自然である。都教委は教育内容についての判断をあえて避けているようにもみえる。
  このことから,懲戒処分を行う都教委の裁量権行使において,当然に考慮しなければならない重要な考慮事項を考慮しなかったという違法が認められる。こうした都教委の審理不尽についての事実関係は,原審が次のように確認している。
  「ウ 控訴人は,本件記載に引用した古賀都議の発言や扶桑社に対する本件記載に書いた評価は,日本政府がことあるごとに公に表明してきた立場に基づいており,十分に客観性を有する批判であって,根拠のない「誹謗でも,からかうという意味の「揶揄」でもないと主張する。
 しかしながら,原審は,控訴人の古賀都議の本件発言や扶桑社の教科書に対する評価の内容を問題としているのではなく,その『表現』を問題にしていることは,判文上明らかであり,上記主張は的外れである。」(控訴審判決49頁)
 「本件戒告処分は「不適切な文言」を記載した本件資料を作成・配布し,授業で使用したことを懲戒事由としているのであって,紙上討論授業を始めとする授業の方法や内容を懲戒事由としたものではないことが明らかである」。(控訴審判決50頁)
  このように原審は,本件資料に記載された教育内容を問題とせず,また,申立人の行った授業の方法や内容を問題としないという立場をとっている。たしかに,裁判所の審理においては,本件資料に記載された教育内容が学問的にみて真実であるか否か,あるいは,その記載の前提となる歴史認識の真偽を判断する必要はない。しかし,裁判所は,本件資料の使用が懲戒事由となっている以上は,そこに記載された教育内容が社会常識からみて偏っていて不適切なものであるかどうかを判断しなければならないはずである。このような,社会常識ないし社会通念の評価に関わる判断は,裁判所が審理するべき事項である。
  したがって,申立人の授業が公正,中立に行われておらず,公教育への信頼を損なうものであるとして,信用失墜行為に該当するとした判断には,本件授業の教育内容や指導方法の是非についてまったく吟味しないという決定的な誤りがある。

(3) 処分事由としての誹謗について

  本件戒告処分は不適切な文言を記載した本件資料を授業で使用したことを処分事由としている。その文言というのは,特定の都議会議員及び出版社の名前を挙げて,「国際的に恥を晒す」「得々として嬉々として披露」「歴史偽造主義者達」「歴史偽造で有名」などと表現したもので,原審はこれらの表現を,「揶揄しつつ貶める」「特定の者を誹謗する」ものであるとする事実評価を行った(第一審判決20頁,21頁および控訴審判決48頁)。そのうえで,本件資料を授業で使用することは,公正,中立に行われるべき公教育への信頼を直接損なうものとして,本件戒告処分を適法性を認めた。
  原審では,「揶揄」「誹謗」について,法律用語として別段の定義を行っていないので,一般的な意味として,揶揄は「からかうこと。からかい。」,誹謗は「そしること。悪口を言うこと。」(『広辞苑 第四版 CD−ROM版』岩波書店,1996年)という意味に捉えることとする。
  先に引用したように,申立人が,本件資料の記載は「十分に客観性を有する批判であって,根拠のない『誹謗』でも,からかうという意味の『揶揄』でもない」と主張したのに対して,原判決は,申立人の「古賀都議の本件発言や扶桑社の教科書に対する評価の内容を問題としているのではなく,その『表現』を問題にしていることは,判文上明らかであり,上記主張は的外れである」としている(控訴審判決48頁)。つまり,原審は,本件資料の記載が,客観的根拠の有無に関係なく,「揶揄」「誹謗」と評価するのが相当であるとしている。かくして,原審においては,本件資料の記載が正当な根拠のある批判であるのか,あるいは根拠のない誹謗か,という区別を為さないまま,「誹謗」という評価を下している。
  しかしながら,特定の者を誹謗することが直ちに非違行為となるわけではない。教師が授業で社会常識的にみて望ましくない事柄を授業で批判し,「悪く言う」ことは当然のことである。
  たとえば,教師が政治倫理を学習するためのプリント資料を作成し,元首相の汚職事件に関係して「ウソつきで,とんでもないヤツだ」というコメントを記載し,授業で使用したとすると,この文言はたしかに「誹謗」にあたる不適切なものであると考えられるが,この文言を資料全体の文脈から切り離して評価し,その不適切性のみを理由に,このプリント資料の使用が懲戒事由に該当すると判断することは困難である。そのほかにも,教師が殺人などの犯罪者のことを「誹謗」することは日常茶飯事であり,その一つ一つが懲戒事由になるとはとうてい考えられない。
  特定の者を誹謗することが無条件に非違行為に該当すると考えることはできないのであって,誹謗する表現が非違行為に当たるというためには,誹謗の程度,態様,誹謗する理由・根拠,どのような脈絡で誹謗する表現が使用されたか,もとの指導内容の趣旨,それとの関連性,誹謗によって教育活動に生じた支障の程度,などが検討されなければならない。原審は,このような諸事項をいっさい検討していないし,また,誹謗により教育活動に支障が生じたという具体的事実も認定されていない。
  先にみたように(第2,5,(3)),授業という営みの性質上,そこで用いられた表現や言葉が適切なものであるかどうかを検討するにあたり,その一言一句について,厳密にその妥当性,必要性を判断することは,名誉毀損,プライバシーの侵害等法令に反する場合を除いて,ほとんど意味を為さないことである。
  原審は,申立人の授業が公正中立に反するという判断を行うにあたり,授業の目標,指導内容,指導方法を検討せず,問題を本件資料の使用のみに限定し,なおかつ,本件資料の趣旨,内容,使用方法を検討せず,問題を記載された表現の不適切性に矮小化している。その結果,原審が本件資料に記載された表現の言葉尻をとらえて,揚げ足をとるがごとき判断方法を採ったことは,直感的に結論を導くものであり,著しく不合理である。
  よって,都教委が本件戒告処分を行うにあたり,本件資料に記載された表現が「揶揄」「誹謗」に当たることのみをもって,本件資料の使用が処分事由に該当する非違行為であると判断したことは,明白に合理性を欠くものであり,裁量権の逸脱または濫用が認められ,本件戒告処分は違法なものといわざるをえない。


2.分限免職処分

  申立人がその職に必要な適格性を欠く(地方公務員法第28条第1項第3号)として,都教委から平成18年3月31日付けで受けた分限免職処分(「本件分限免職処分」)について,その違法性を申立人の行った授業の問題を中心に述べる。

(1) 「三度,同種の非違行為を繰り返した」について

  原判決の引用する第一審判決は,申立人の適格性欠如の徴表となる事実について,次のように述べる。
 「義務教育として行われる普通教育を施すことを目的とする中学校の教師の立場において,特定個人又は法人を誹謗する内容を含む資料を配布して授業を行うことは,教育の中立,公正さに対する信頼を直接損ねる行為なのであり,第1次,第2次懲戒処分と本件戒告処分は,誹謗の対象が生徒の保護者か都議会議員及び教科書出版社かという違いはあるものの,同種の非違行為であることは明らかである。原告は,第1次,第2次懲戒処分及びこれに引き続く長期研修を受けたにもかかわらず,同種の非違行為を繰り返したのであるから,中立,公正に教育を行うべき教育公務員としての自覚と責任感を欠くという問題点を有しているといわなければならない。」(第一審判決26頁)
  ここでは,申立人が三度,同種の非違行為を繰り返したことが適格性欠如の徴表として重視されているが,原判決は,このうちの前二回の非違行為について,次のような事実を認定している。
 「控訴人は,第1次懲戒処分についての第1審判決において,控訴人の配布したプリントの記載内容につき,「社会通念上許された範囲を超え,対象となった特定の保護者を侮辱し,誹謗するものである」,「社会通念上許される限度を超えた侮辱的表現により本件保護者の名誉感情を不当に侵害する」などと認定判断されその判断は控訴審判決によっても維持された上,さらに,「控訴人は・・・意図的に当該保護者を侮辱し,誹謗することも主要な目的の一つとして記載した」と認定判断されたものであり(乙ロ12,13),また,第2次懲戒処分についての第2事件の第1審判決において,控訴人の郵送した文書の記載内容につき,「実名をあげて保護者Aを一方的かつ執拗に誹謗中傷した」,「実名をあげ同人を公然と誹謗中傷するものであり,著しく相当性を欠く」などと認定判断され,その判断は控訴審判決によっても維持された(乙ロ16,17)というのである。」(控訴審判決54頁,55頁)
  これによると,第1次懲戒処分に係る訴訟において,申立人の言動が「社会通念上許された範囲を超え」「侮辱」「誹謗」「名誉感情を侵害する」と認定されており,第2次懲戒処分に係る訴訟においては,「誹謗中傷」などと認定された。そして三度目に当たる本件戒告処分については,原審において,本件資料の文言が「誹謗」に当たると認定されてはいるものの,「侮辱」「名誉感情を侵害する」「中傷」に当たるとは認定されていない。つまり,本件戒告処分について,原審では申立人の言動が,「侮辱」「名誉感情を侵害する」「中傷」には当たらないと評価しているものと解される。そのことは,「誹謗中傷」という文言を使わず,単に「誹謗」とのみ表現していることにも現れている。
  したがって,三度,同種の非違行為を繰り返したというのは,三度,誹謗に当たる表現を用いる事件を起こしたということである。そして,前述のように原審では「誹謗」の定義が行われていないので,三度,同種の非違行為を繰り返したというのは,「三度,悪口を言った」という程度の意味しか持たないということになる。
  先にみたとおり,教師が常識的にみて望ましくない事柄を,授業で批判し「悪く言う」ことは当然のことであるから,三度,誹謗に当たる表現を繰り返したことをもって,教育公務員としての自覚と責任感に欠けると判断することはできない。

(2) 「自己の見解の正当性に固執」について

  原審は申立人が適格性を欠くことの徴表として,次のように判示した。
 「事実を総合すれば,控訴人は,中立,公正に教育を行うべき教育公務員としての自覚と責任感に欠け,自己の見解の正当性に固執し,それと相いれない見解を持つと自分が考える者を誹謗する傾向を有し,懲戒処分や研修を受けてもこれを改善しようとする意思を全く持たないものであって,それは,簡単に矯正することのできない控訴人の素質・性格に起因するといわざるを得ない。」(控訴審判決55頁)
  この「中立,公正に教育を行うべき教育公務員としての自覚と責任感に欠け」るという点について,申立人の授業が公正中立の要請に反するものではないことは前述したとおりであり(第3,1,(2)),適格性欠如の徴表とは認められない。
  次に,自己の見解の正当性に固執すること,および,それと相いれない見解を誹謗することが,適格性欠如の徴表とされている。しかし,申立人がいかなる見解に固執し,また,いかなる見解を誹謗しているかを吟味することなく,適格性欠如の判断を下すことは著しく不合理である。誹謗することが直ちに非違行為に該当するものではない,ということについては前述したとおりである(第3,1,(3))。
  自己の見解に固執することについては,その見解の中味が問題なのであって,その中味を問わないまま,「物事には良いも悪いもない,自分の考えに固執するな」というのは,宗教的な命題としては成り立つとしても,法的な要請とは考えられない。つまり,申立人が「些細なことに執着している」あるいは「偏った見解に固執している」ことを論証することなく,単に「自己の見解に固執」することをもって,適格性を論ずることはできないのである。つまり,正当な個人の信念を,その信じる見解や思想の評価を抜きに,不適格性のもととなる「簡単に矯正することのできない持続性を有する素質,能力,性格」に該当すると判断することはできないのである。
  申立人は,日本国憲法や教育基本法の基本原理である,平和主義および民主主義の精神を忠実に教え,社会の一員として必要な実践的能力を育成する教育が重要であるとする教育的信念をもって,これに反する見解や主張に対して厳しく反論しようとする傾向をもつものと推察される。そして,その反論がときに「誹謗」に当たることがあるにしても,こうした信念を持つこと,あるいは,反論しようとする傾向を適格性欠如の徴表とすることはできない。
  たしかに,信念に基づく行為であっても,それが業務への重大な支障をもたらす場合には,適格性を欠くとの判断が可能である。しかし,本件においては具体的に重大な支障が生じたという事実は認定されていない。さらに,申立人の信念は日本国憲法や教育基本法の精神に合致したものであり,その行為は,意図的な業務妨害や自己中心的な私利私欲による行動を含むものではなく,純粋な教育的信念ないし情熱から出たものである。こうした点において,申立人の行為には,その原因・動機に酌むべき事情のあることが考慮されるべきである。

(3) 総合的検討を行っていない

  原判決の引用する第一審判決は,適格性の有無の判断方法について次のように述べる。
 「その職に必要な適格性を欠く場合とは,当該職員の簡単に矯正することのできない持続性を有する素質,能力,性格等に起因してその職務の円滑な遂行に支障があり,又は支障を生じる高度の蓋然性が認められる場合をいうものと解するのが相当であり,この適格性の有無は,当該職員の外部に現れた行動,態度等を相互に有機的に関連付けて評価し,当該職員の経歴や性格,社会環境等の一般的要素をも考慮し,これら諸般の事情を総合的に検討して判断する必要がある。」(第一審判決25頁,26頁)
  これは処分権者の判断方法に一定の基準を設けるものであるが,多方面にわたる職員の行動,態度等の諸要素を,分離して検討するのは相当ではなく,相互に関連づけて適格性の有無を判断すべきことを示している。
  また,懲戒処分との比較において,懲戒処分では,当該問題行動以外の被処分者の優れた資質や能力ないし勤務実績等は,基本的に考慮される必要がなく,処分事由該当性の判断に直接的には影響を及ぼさない。しかし,分限処分においては,当該問題行動だけでなくそれ以外の要素についても考慮し,それらの諸要素と当該問題行動との関係性についても考慮し,その上で職員の「素質,能力,性格等」を検討すべきことが求められるのである。
  たとえば,職員の行動が業務の多方面において支障をきたしている場合,その一つ一つが些細な支障で,それぞれを分離して評価すれば,処分事由に相当する程度には至らないものであっても,総合的に評価すれば,望ましくない資質を備えているとして,適格性を欠くとの判断が可能となる。
  また,たとえば,職員の職務遂行が概ね良好であるものの,ある特定の問題行動が業務に支障をきたしている場合において,総合的検討を行うとすれば,その支障が重大なものであり,なおかつ,その特定の行動の問題性が,他の要素の良好性を考慮してもなお,それを打ち消すほどの,致命的な欠陥に相当するときには,適格性を欠くとする判断が可能となる。その特定の問題行動のみを考慮して不適格の判断を下すのであれば,それは総合的検討による判断を行ったとはいえない。
  都教委は,原審の示す「諸般の事情を総合的に検討して判断する必要がある」という基準に違背し,申立人の誹謗する傾向があるという一面に拘泥し,申立人についてのその他の要素,すなわち,教育実績や勤務態度,同僚との信頼関係等を考慮することなく,また,それらを有機的に関連づけて評価することなく,強引に不適格の判断を行った。この点において,都教委の裁量権行使にはその逸脱,濫用の違法がある。

(4) 判断過程に合理性を欠く

  原審は分限事由該当性の裁量判断について,次のように判示する。
 「長束小事件判決は,小学校校長に対する降格が問題とされた事案であり,免職処分の適否が問題とされたものではない。そして,免職処分についても,任命権者に裁量権が認められるのであって,考慮すべき事項を考慮せず,考慮すべきでない事項を考慮したり,その判断が合理性を持つ判断として許容される限度を超えた不当なものであったりする場合に,裁量権の逸脱,濫用が認められるというべきである。」(控訴審判決54頁)
  ところが,原審は,本件分限免職処分がこの基準に則っていないことを看過している。
  すなわち,都教委は,「中立,公正に教育を行うべき教育公務員としての自覚と責任感に欠ける」という分限事由の判断にあたり,戒告処分の場合と同様に,申立人の授業における教育内容および教育方法の是非についての考慮を怠り,公正中立に反する教育を行っているものと一方的に断定した。
  また,「自己の見解の正当性に固執し,それと相いれない見解を持つと自分が考える者を誹謗する傾向を有する」という分限事由の判断にあたり,申立人の見解が偏った内容のものであるかどうかの考慮を怠った。
  さらに,都教委は,申立人の行動,態度等を相互に有機的に関連付けて評価せず,諸般の事情を総合的に検討せずに判断している。
  したがって,本件分限免職処分において,申立人がその職に必要な適格性を欠くとした判断は,合理的論証の筋道を踏まえることなく導き出されたもので,著しく合理性を欠くものであり,これは「考慮すべき事項を考慮せず,考慮すべきでない事項を考慮したり,その判断が合理性を持つ判断として許容される限度を超えた不当なものであったりする場合」に相当し,裁量権を逸脱,濫用した違法なものといわざるをえない。


おわりに

  現在,中学校の社会科の授業で,実在する各政党の政策を教えたり,あるいは,それをもとに国政選挙の模擬投票をさせるような実践を行う教師はほとんどいない。実態調査を行ったわけではないが,このことは間違いないと考えられる。なぜなら,それは,教科書にそのような記述がないからであり,また,学習指導要領にも,各政党の政策を理解させることを具体的に定めた記述がないからである。このような状況は高等学校においても同様である。言うまでもなく,政党の政策は,教育上尊重されなければならない「政治的教養」(教育基本法)にあたることから,これを教えることは,法令上,何ら問題はない。また,中学校学習指導要領には「我が国の民主政治の仕組みのあらましや政党の役割を理解させる」といった包括的な記述があるので,政党毎の政策を教えることが,学習指導要領に反することにはならない。
  それにもかかわらず,教師が授業で政党の政策を扱わないのは何故であろうか。それは,与党なり野党の具体的な政党の名称を用いて説明を行うと,「特定の政党を支持し,又はこれに反対するための政治教育」(教育基本法)を行ったものと受けとられる可能性があるからである。たとえその授業が同法に反するものでなくても,授業の内容が生徒を通じて,親や地域の議会議員に伝わり,その結果,偏向教育を疑われ,責任追及の声が上がることが懸念される。これに対して,教育の公正中立を守るべき立場にあるはずの教育行政は,議員や一般行政の圧力のもとに,教師の責任を追及する側に加わる。教師の多くはこの問題をめぐって,もはや教育行政を信用していないのである。
  責任追及の中では,政党についての客観的で正当な批判が,不当な誹謗中傷であると見なされ,また,本来許容されるべき政治教育が,偏向教育であると決めつけられていく。指導力不足教員の認定や,懲戒処分,分限処分を受けることも覚悟しなければならない。このようなリスクを冒してまで,政党の政策を教えなければならないと考える教師がほとんどいないのは当然のことである。
  このように,学校において政党の政策を教えないため,子どもたちにはこれを学習する機会がない。その結果,子どもたちは,日本にどのような政党があって,それぞれがどのような政策をもっているかが分からない。これを大学で学んだり,自分でマニフェストを取り寄せて読む者も一部にはいるであろうが少数である。そのため,彼らは20歳になっても,選挙でどの候補者あるいは政党に投票してよいか判断できない。
  世代別に見て20歳代の投票率が極めて低いこと,また,有権者の政治離れが進み,投票行動が流動的でその傾向が定まらないことも,学校教育で充分な政治教育が行われていないことが遠因であると考えられる。
  日本の政治教育は既に萎縮しており,偏向教育を疑われるような教育を自己規制するような状況は常態化している。上に述べた投票行動をめぐる事態はこうした状況の一端を示すものである。原判決は「本件分限免職処分の理由にかんがみれば,これが他の職員に萎縮効果を及ぼすとは考え難い」と述べているが,この認識はかなり実態からかけ離れていると言わざるを得ない。とりわけ,原判決が教育の公正中立違反について明確な基準を設けることなく,曖昧な判断によって公正中立違反を認定したことは,この萎縮効果をより拡大させる方向に作用する。また,免職という事実の重みが極めて大きな影響力をもつことも疑いようがない。
  かりに,本件訴訟で処分が確定することになれば,教育現場では「授業で教科書会社や都議を批判した社会科教師が免職になった」と受けとめられ,教師の間に,授業で現実の社会問題や論争的題材について扱うことは避けた方がよいとする認識がより一層広まると考えられる。その結果,学校教育は,社会に参画する市民性を育てるという重要な使命を果たせなくなってしまう。さらにこうした影響は,近年の教員管理施策の強化と相まって,政治教育だけでなく,教育活動の全般に及び,上司や教育行政の意向に沿わない教育活動を避ける傾向が強まり,教育の活力が失われていくことが懸念される。

以 上





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