● 新教育指針(抄) 昭和21年5月15日 文部省
第1分冊 1946年5月15日 文部省
第2分冊 1946年6月30日 文部省
第3分冊 1946年11月15日 文部省
第4分冊 1947年2月15日 文部省
附 録 1946年7月15日 文部省
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第一部
前編 新日本建設の根本問題
第一章 序論−日本の現状と国民の反省
第二章 軍国主義および極端な国家主義の除去
第三章 人間性、人格、個性の尊重
第四章 科学的水準および哲学的・宗教的教養の向上
第五章 民主主義の徹底
第六章 結論−平和的文化国家の建設と教育者の使命
後編 新日本教育の重点
第一章 個性尊重の教育
第二章 公民教育の振興
第三章 女子教育の向上
第四章 科学的教養の普及
第五章 体力の増進
第六章 芸能文化の振興
第七章 勤労教育の革新
第二部 新教育の方法
第一章 教材の選び方
第二章 教材の取り扱い方
第三章 討議法
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はしがき
本書は新しい日本の教育が、何を目あてとし、どのような点に重きをおき、それをどういふ方法で実行すべきかについて、教育者の手びきとするためにつくつたものである。すなはち第一部前ぺんでは、新日本建設のために何が必要であるかを論じ、それとの結びつきにおいて新教育の目あてとすべきことがらを述べ、後へんでは、それにもとづいて、これからの教育がとくに力をそそぐべき重点をあげて説明した。第二部はこれらの目あてや重点を、学校教育の実際において、どんな仕方で実現すべきかを説いたものである。いひかへれば、第一部は新教育の理論を述べ、第二部はその実際を取り扱つたものといつてもよいであらう。
国民の再教育によつて、新しい日本を、民主的な、平和的な、文化国家として建てなほすことは、日本の教育者自身が進んではたすべきつとめである。マッカーサー司令部の政策も、この線にそつて行はれてをり、とくに教育に関する四つの指令は、日本の新教育のありかたをきめる上に、きはめて大切なものである。本書の内容はこれらの指令と深い結びつきをもつて記されてゐる。それゆゑに巻末の附録として四つの指令をかかげ、読者の参照に便することとした。
本書は、ここに盛られてゐる内容を、教育者におしつけようとするものではない。したがつて教育者はこれを教科書としておぼえこむ必要もなく、また生徒に教科書として教へる必要もない。むしろ教育者が、これを手がかりとして、自由に考え、ひ判しつつ、自ら新教育の目あてを見出し、重点をとらへ、方法を工夫せられることを期待する。あるひは本書を共同研究の材料とし、自由に論議して一そう適切な教育指針をつくられるならば、それは何よりも望ましいことである。教育者自身のかうした自主的な、協力的な態度こそ、民主教育を建設する土台となるのである。本書が各章に対していくつかの研究協議題目をかかげたのも、教育者が自ら考へることを、たすけるためである。
本書は、はじめ省外の権威者数氏をわずらわして草案を得たのであるが、マッカーサー司令部と相談の結果、その内容及び表現を、できるだけ、やさしくわかりやすいものとするために、省内で書きあらため、本省の責任において出すことにした。とくに漢字の制限については本省も大いに意を用いているので、ここでもそれを実行し、さしあたり昭和十七年に国語審議会が常用漢字と定めた千百三十四字の制限内で本書を書いた。このような事情であるから、最初に貴重な草案を寄せられた各位に対し深く感謝するとともに、その大部分が全くかわつた形で出されたことにつき、承認をこう次第である。
なお印さつ・製本などの実情を考え、一日も早く皆様の手に届けるため、全体を数冊に分けて出し、付録の『指令』も別冊として送ることにした。読者において、最後に順序よくまとめられることを希望する。
昭和二十一年五月
文部省
第一部 前ぺん 新日本建設の根本問題
第一章 序論―日本の現状と国民の反省
一、日本は今どんな状態にあるか〔略〕
二、どうしてこのやうな状態になつたのか
日本をこのやうな状態にさせた原因は何であらうか。またそれはだれの責任であらうか。もちろん戦争に負けたから、このやうな状態になつたのであるが、しかし、さかのぼつてこの戦争をひき起したことそのことに原因があり、したがつて国民をこの戦争へと導いた指導者たちに責任があるのである。その人たちは本当に日本のために、また東亜のためによいことと考へて、やつたのかも知れないが、その考へ方にあやまりがあつて、こんなことになつたのである。今日軍人や政治家や財界人や思想家などのうちで、戦争責任者としてマッカーサー司令部から指名せられ、もしくは日本国民から非難せられてゐる人々は、かうしたあやまちををかした人々である。
しかし指導者たちがあやまちををかしたのは、日本の国家の制度や社会の組織にいろいろの欠点があり、さらに日本人の物の考へ方そのものに多くの弱点があるからである。国民全体がこの点を深く反省する必要がある。とくに教育者としてはこれをはつきりと知つておかなくてはならない。われわれは次にこれらの欠点、弱点をあげてみよう。
(一)日本はまだ十分に新しくなりきれず、旧いものがのこつている。
一方では近代文化を取りいれて進歩した生活をしながら、他方には旧くからの、封建的といはれるやうな生活がのこつてゐる。例へば電燈やガスを使ひ、ラジオを聞いてゐながら、しうとめがよめを不当に苦しめたり、主人が女中を道具のやうに取り扱つたりする家もある。工場では機械の力によつて大仕掛の生産をしてゐるが、そこで働いてゐる工員たちまで機械のやうに使はれてゐることが多い。自動車が走つてゐる道路の片隅で、手相をうらなつてもらふ人々もゐるのである。
このやうな事実は何を意味するのであらうか。日本国民は外から来る文化をすなほに取りいれる力すなはち包容力をもつてゐる。また新しくふれたものに親しみそれと一つになる性質、すなはち同化性にすぐれてゐる。これは日本国民の長所であつて、古くはアジア大陸から、儒教・仏教・文字・織物や焼物の技術などを取り入れた。しかしそれらの本当の精神を理解するには長い年月が必要であつた。ましてそれらを自分のものとして生かすことは容易なことではなかつた。明治維新以来の日本は、西洋文化を急いで取りいれ、それによつて近代化した。けれどもそれは主として西洋文化の物質方面、もしくは外がはの形を学んだのであつて、その根本の精神、またはその中にある実質はまだ十分に取りいれてゐないのである。例へば汽車や汽船や電気器具を使ふことは学んでも、それらをつくりだしたところの科学的精神そのものは、まだ十分に発展させてゐない。憲法政治や議会制度の形式を取りいれても、それらの実質すなはち人の権利を尊重することや自由な意志による政治といふことは、まだ十分に実現されてをらない。
このやうに日本の近代化は中途半端であり、とくに近代精神の本質として後に述べるやうな諸点については、きはめて浅い理解しかもつてゐない。それにもかかはらず、すでに西洋文化と同じ高さに達したと思ひこみ、それどころか、精神方面においては、東洋人の精神、とくに日本人の精神の方がすぐれてゐると思ふ人々すらあつた。かうした誤つた考へをもつた人々が国民の指導者となつて、西洋文化を軽んじ、その力を低く見て、戦争をひき起し、国民もこれにあざむかれて戦ひ、つひに敗れたのである。そこに日本の弱点があり、国民の大きなあやまちがあつた。われわれは日本国民の長所である包容力、同化性をもつとよくはたらかせて、西洋文化をその根本から実質的に十分取りいれ、それを自分のものとして生かすやうにつとめなくてはならない。このことは、後に「科学的水準及び哲学的・宗教的教養の向上」の章でさらにくはしく説くであらう。
(二)日本国民は人間性、人格、個性を十分に尊重しない。
ここに三つの言葉――たがひに関係が深く、また、にてゐながら、少しつつ意味がちがひ、使ひ方も区別さるべき言葉――を出した。後にもたびたび出てくるこれらの言葉の意味をあらかじめ簡単に説明しておかう。
人間性といふのは、人間が本来もつてゐる性質・能力・要求といふやうなものである。人間は他の動物と同じく肉体をもち物質にたよつて生きてゐる。そして物を食べたり子供を生んだりするやうな本能、みたりきいたりする感覚、憎んだり恐れたり喜んだりする感情などをそなへてゐる。しかしただそれらをもつて動物のやうに暮してゐるのではなく、人間に特有の自由意思によつて、その生活が道理にかなふやうに、正しく善くあるやうに、美しく心地よくあるやうに、信心深くつつましやかであるやうにと願ひ、かつ努力する。そこに学問・道徳・芸術・宗教などの文化がつくり出される。かうしたはたらきが人間性であつて、それらをおさへゆがめずにのばすところに、人生の目的がある。
人格といふのは、人間の人間たる資格、ねうちといふ意味であつて、それは人間性として、そなはつてゐるいろいろのはたらきを、自由な意思をもつて統一してはたらかせるところに成立する。機械やどれいのやうに、自由な意思がなく、他から動かされてはたらくものには人格は認められない。またいろいろなはたらきがたがひに分れつしたりむじゆんしたりして統一がないものは人格もないのである。人間は人格としてたがひに尊重さるべきであつて、機械やどれいのやうに単なる手段として取り扱はれてはならない。
個性といふのは、人間の一人々々の独特の性質といふ意味である。すべての人が共通に人間性をそなへてをり、まただれでも人格として、平等に尊重せられねばならぬけれども、人間性は各人によつてあらはれかたがちがつており、したがつて各人は他の人と区別さるべき特色をもつてゐる。これが個性である。たとへば或る人は美しいものを求め美しいものをつくり出す力がすぐれてゐて、美術家の個性をあらはし、他の人は青少年に対する愛情とかれらを指導する能力とがすぐれてゐて教育者の個性をあらはす。人間は各々の個性にしたがつて人間性をのばし、人格をはたらかせ、人類文化のためにつくすのである。
さてこれまでの日本国民には、このやうな人間性・人格・個性を尊重することが欠けてゐた。例へば封建時代において、将軍とそれに治められている藩主、藩主とそれに仕へる家来としての武士、武士とその下にゐる百姓町人、といふやうに、上から下への関係がきびしく守られてゐた。そして上の者は下の者を自分につがふのよい手段として使ひ、下の者は自分の自由をおさへて上の者に仕へた。そこでは下の者は人間性を十分にのばすことができず、また人格を尊重せられず、個性を認められることも少なかつた。このやうな封建的な関係は近代の社会にものこつてゐる。例へば役人と民衆、地主と小作人、資本家と勤労者との関係が主人と召使のやうに考へられ、大多数の国民は召使と同様に人間性をおさへゆがめられ、人格を軽んじられ、個性を無視されることが多いのである。
教育においても教師と生徒との間に封建的な関係があると、教師は自分の思ふままに一定のかたにはめて生徒を教育しようとし、そこに生徒の人間性がゆがめられる。また教師が自分の名誉や利益のために生徒を手段として取り扱ふことにより生徒の人格を傷つけることが多い。さらに生徒の個性を無視して画一的な教育を行ふので、生徒の一人々々の力が十分にのばされないのである。
右に述べたやうに、社会生活においても、教育においても、人間性・人格・個性が十分に重んぜられなかつたことは、日本の大きな弱点であつた。そしてこの点が軍国主義者や極端な国家主義者に利用せられたところに、戦争の起つた原因もあり、敗戦の原因もあるのであつて、この点は後の章でさらにくはしく論ずるであらう。
(三)日本国民は、ひはん的精神にとぼしく権威にまう従しやすい。
上の者が下の者を愛してよく指導し、下の者が上の者を尊敬してよく奉仕することは、日本国民の長所であり、忠義や孝行の美徳はここに成り立つ。しかしこれは自由の意思にもとづき、自ら進んでなされるのでなければならない。上の者が権威をもつて服従を強制し、下の者がひはんの力を欠いてわけもわからずにしたがふならばそれは封建的悪徳となる。事実上、日本国民は長い間の封建制度にわざはひせられて、「長いものには巻かれよ」といふ屈従的態度に慣らされてきた。いはゆる「官尊民卑」の風がゆきわたり、役人はえらいもの、民衆はおろかなものと考へられるやうになつた。政府は憲法に保障されてゐるにもかかはらず、言論や思想の自由その他人間の大切な権利を無視して、秘密警察や、がうもんを用ひ、国民は政府をひはんする力を失ひ、「お上」の命令には文句なしにしたがふやうになつた。しかもそれは自由な意思による、心からの服従ではないので、裏面では政府を非難し、自分ひとりの利益を追ひ求めるものが多い。このやうな態度があつたればこそ、無意味な戦争の起るのを防ぐことができず、また戦争が起つても政府と国民との真の協力並びに国民全体の団結ができなかつたのである。
教育においても、教師が教へるところに生徒が無ひはん的にしたがふのではなく、生徒が自ら考へ自ら判断し、自由な意思をもつて自ら真実と信ずる道を進むやうにしつけることが大切である。このやうにしてはじめて、後に述べる「民主主義のてつ底」も「公民教育の振興」もできるのである。
(四)日本国民は合理的精神にとぼしく科学的水準が低い。
ひはん的精神に欠け、権威にまう従しやすい国民にあつては、物事を道理に合せて考へる力、すなはち合理精神がとぼしく、したがつて科学的なはたらきが弱い。日本人のうちには少数のすぐれた科学者もあるが、国民一般としては科学の程度がまだ低い。例へばこれまでの国史の教科書には、神が国土や山川草木を生んだとか、をろちの尾から剣が出たとか、神風が吹いて敵軍を滅ぼしたとかの神話や伝説が、あたかも歴史的事実であるかのやうに記されてゐたのに、生徒はそれを疑ふことなく、その真相やその意味をきはめようとしなかつた。このやうにして教育せられた国民は、竹やりをもつて近代兵器に立ち向かはうとしたり、門の柱にばくだんよけの護り札をはつたり、神風による最後の勝利を信じたりしたのである。また社会生活を合理化する力がとぼしいために、伝統的な、かつ根のない信仰に支へられた制度や慣習がのこつてゐる。いろいろな尺度が混用されたり、むづかしい漢字が使はれたりするのも、同じ原因にもとづく。そしてそれらの不合理な重荷がますます国民の科学的精神をおさへつけてゐるのである。
軍国主義や極端な国家主義は日本国民のかうした弱点につけこんで行はれたものであり、「民主主義のてつ底」や「平和的文化国家の建設」は合理的精神をのばすことによつてはじめて成しとげられる。われわれは後に「科学的水準の向上」及び「科学的教育の普及」の章において、この問題をさらにくはしく取り扱ふであらう。
(五)日本国民はひとりよがりで、おほらかな態度が少い。
封建的な心持をすてきれぬ人は、自分より上の人に対しては、無ひはん的にまう従しながら、下の者に対しては、ひとりよがりの、いばつた態度でのぞむのが常である。そしてひとりよがりの人は、自分とちがつた意見や信仰を受けいれるところの、おほらかな態度をもたない。日本国民のこのやうな弱点は最近とくにいちじるしくなつた。政治家は自分の政策が最もよいとひとりぎめをして、それに反対する人々をあつぱくした。政府の方針を支持する学者たちは、自分たちの学説だけを正しいものときめて、他の学説をしりぞけた。神道を信ずる人々の中にはキリスト教を国家に害のある宗教であるかのやうに非難する者もあつた。
かうしたひとりよがりの態度は、やがて日本国民全体としての不当な優越感ともなつた。天皇を現人神として他の国々の元首よりもすぐれたものと信じ、日本民族は神の生んだ特別な民族と考へ、日本の国土は神の生んだものであるから、決して滅びないと、ほこつたのがこの国民的優越感である。そしてつひには「八紘為宇」といふ美しい言葉のもとに、日本の支配を他の諸国民の上にも及ぼさうとしたのである。
およそ民族として自信を抱き、国民として祖国を愛するのは、自然の人情であつて、少しもとがむべきことではない。しかしそのために他の民族を軽んじたり、他の国民を自分にしたがはせようとするのは、正しいことではない。日本国民はかうした態度のためにかへつて世界の同情を失ひ、国際的にひとりぼつちになつた。これが戦争の原因でもあり敗戦の原因でもあつたのである。
これからの教育においては、個人としても国民としても、ひとりよがりの心持をすて、他の人々や他国の国民を尊敬し、自分と立場のちがふ者の意見や信仰をもおほらかに取りいれる態度を養ふことが必要である。われわれはこの点を「軍国主義及び極端な国家主義の除去」、「民主主義のてつ底」、「平和的文化国家の建設」等においてとくに力説するであらう。
三、これからどうしたらよいか
以上にわれわれは日本国民の生活や思想について、いろいろの弱点を述べてきた。日本を今日の状態に至らしめた直接の原因は、最近に国民を指導してきた人々、すなはち戦争責任者としてれん合国からも日本国民からも追究されつつある人々のあやまちにあるのであるが、しかしこれらの人々があやまちををかしたのは、日本国民全体にこのやうな弱点があるからである。この意味において戦争の責任は国民全体が負ふべきであり、国民は世界に向つて深くその罪を謝するところがなければならない。
罪を謝するといふことは、ただ後悔して引きさがつてしまつたり、れん合国軍からの要求を、受け身になつて、仕方なしに行ふというやうな、消極的な態度ですまされるものではない。むしろ自ら進んで、積極的な態度をもつて、ポツダム宣言をはじめ、れん合国軍から発せられた多くの指令を実行しそれによつて新しい日本を建設することでなければならない。敗戦といふ事実は、われわれにとつてまことに悲しいことであるが、しかしそれを機会として、これまでの弱点を除き、あやまちを改めて新しい日本の建設に出発するならば、悲しみを喜びに転ずることができる。これが今後の日本国民のなすべき仕事である。
新しい日本の建設のために、教育者の任務はとくに大きい。日本国民における弱点が長い間にできたものであるだけに、それを改めるためには長い年月を必要とする。しかもそれは国民の生活態度や物の考へ方の根本に関係する仕事である。とくに国民のうちの青少年たちに、新しい考へ方を育ててゆくことが、新しい日本をつくるのに最もききめのある道である。これがまさに教育にほかならない。マッカーサー司令部が教育に関する大切な指令を発し、日本国民の再教育に積極的な指導と助力とをなしつつあるのも、このゆゑである。本書は以下の各章において、これらの指令と関係を保ちながら、新しい日本の建設について何が根本的な問題であり、何が教育上とくに力をそそぐべき重点であるかを論じてゆく。しかしこれらのことがらをほんとうに実行し実現するのは、職場で実際にはたらいている教育者である。新しい日本の建設が成るか成らないかは、全く教育者の責任であるといつても言ひ過ぎではない。かうした心持から、われわれは以下の諸問題を全国の教育者とともに考へてゆかう。(研究協議題目巻末参照)
〔以下略〕
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第六章 結論―平和的文化国家の建設と教育者の使命
一、人間のほんとうの願ひは何であるか
われわれはすでに多くのことを述べてきた。ここでは一応それらの結びをつけなければならない。「これからの日本はどんな国であるべきか。そしてこれからの教育はどんな人間をつくればよいか。」このことを今日のすべての教師たちは問ふであらう。われわれはこれに対して次のやうに答へる。「新しい日本を平和的文化国家として建設しよう。そして平和を愛し文化を求める人間をつくつてゆかう。」と。
(一)平和への願ひ
戦争に負けたから、軍備を取りあげられたから、やむを得ず平和を愛する、といふのではない。むしろ人間のほんとうの要求を充たすために平和を愛するのである。人はだれでも心の奥底においては平和を愛してゐる。一たび戦争が起つたからには、祖国のために、夫をささげ、子を失ひ、家を焼かれてもがまんをして戦つたのであるが、しかし、このやうな悲惨な戦争を起さずにすむことならそれにこしたことはない、と人々は心の底で願つたのである。国民を戦争へとかり立てた人々すら、戦争を目的として戦ふのではなく、平和のために戦ふのだ、平和をみだすやうな不正や不公平を取り除くために、やむを得ず戦争をするのだ、と説明した。かうした説明は、他国をおかす野心をかくすための口実である場合が多い。しかしこのやうな口実をつくらねば戦争ができないところをみると、人間のほんとうの願ひは平和にあるといふことがわかる。軍国主義及び極端な国家主義がいけないのは、かうした人間のほんとうの願ひにそむくことをさせるからである。
(二)文化への願ひ
文化を発展させることもまた人間のほんとうの願ひである。平和を愛するのも、実は平和においてこそ文化を発展させることができるからである。すでに「人間性・人格・個性の尊重」の章で述べた如く、人間は家畜のやうに、安楽に暮し、食べたり眠つたりして一生を送ることに満足するものではない。生活を道理にかなつたもの、正しく善いもの、美しく心地よいもの、信心深くつつましやかなものとするために、努力するのが人間の特色である。つまり真・善・美・聖といふやうな貴いものを求め、それを実際の生活にあらはさうとして、そこに技術・経済・政治・学問・道徳・芸術・宗教などの文化をつくり出し発展させてゆくのが、人間のほんたうの要求である。
二、これからの日本はどんな国であるべきか
平和を愛し文化を求めるのが人間のほんとうの要求であるから、この要求がとげられやすいやうに、心をくばり、必要な条件を整へるのが国家の仕事であつて、かうした国家が平和的文化国家である。
(一)平和国家―国内平和と国際平和
そのためには、さきに「民主主義の徹底」の章で述べたやうに政治・経済・社会の諸方面にわたり、民主化が行はれて、国民の生活が公平な、明るい、安定したものとなることが必要である。国民の間に階級の差別や貧富の甚だしいへだたりなどがあつて、不満や反目が起ると、それが原因となつて戦争をはじめることもある。すなはち国内のむづかしい問題を解決するために、外に向かつて事をかまへ、戦争によつて不満や反目を除かうとくはだてることがある。清洲事変から太平洋戦争に至るまでの日本のたどつてきた道をふりかへつてみると、国内における国民生活の不安定や、国民おたがひの反目がもととなつて、五・一五事件とか、二・二六事件とかのやうな事件が続き、このなやみを戦争によつて解決しようとはかつたことがわかる。平和国家としての日本は、何よりも先づ国内の平和につとむべきであつて、さきに述べた「人間性・人格・個性の尊重」や「民主主義の徹底」はこのためにこそ必要なのである。
平和国家は外に対して国際親善の方針を取らなければならない。すなはち国際法規を重んじ、進んで世界平和の仕組に協力することが必要である。さきに「国際的民主主義」のところで述べたやうに、清洲事変以来、日本が国際連盟の理事会や総会において、一三対一とか四二対一とかの投票によつて、日本以外のすべての国々から反対されたにもかかはらず、何の反省もすることなく、つひに連盟からぬけ出して国際的にひとりぼつちとなり、それがやがて太平洋戦争を起しまた敗れる原因となつたことは、実に日本のおかした大きなあやまちであつた。このやうな態度を改めなければ平和国家として生れかはることはできないのである。いま世界には新しく国際連合がつくられ、これまでの国際連盟よりもさらに強い力とゆきとどいた方法とをもつて世界の平和を保障しようとしてゐる。すでにたびたび述べたやうに日本はポツダム宣言を完全に実行し、できるだけ早く講和条約を結び、進んでこの国際連合に参加するやうにつとめなければならない。
(二)文化国家―国民文化と人類文化
右のやうにして国内的にも国際的にも平和を保つことにつとめながら、その平和の土台に立つて、文化をつくり発展させることが文化国家の役目である。文化はすべての人間に共通にそなはる人間性をもととして、そこから生み出されるものであるから、世界人類に共通に理解され、うけいれられるものであるが、同時にそれは国々の風土や伝統や国民性によつて、国民文化としての特色をおびてあらはれる。すなはち人類文化としてすべての人間に通用するねうちをもちながら、国民文化として個性的特色をそなへてゐるのが、文化のあり方でいる。例へば日本の美術は、日本国民の物の見方や感じ方、わざ、うでまえといつたやうなものによつて、日本に独特の個性をそなへてゐながら、それが世界の人々によつてひろく理解され喜ばれるだけの一般的な美しさをそなへてゐるのである。
国民文化といふことを強調する場合に、それがただ自分の国民だけに特別なもので、他の国民に理解もされず尊重もされないものであつてはならない。国民文化は国民の長所を生かして世界人類の文化につくすところにそのねうちをもつてゐるのである。これまで日本的な学問とか、日本的な経済とか、日本的な道徳とかが盛んに説かれたが、かうした国民文化がつねに一般的な人類文化に根ざしてゐなければ、ひとりよがりに終るであらう。はじめから日本的な特色を出さうとつとめるよりも、むしろ世界のすべての人々がほんとうに真実なものと認め、正しく書いものとして重んじ、美しく心地よいものとして喜ぶやうなものを求めて、しかも日本人としてできるだけの力をつくしさへすればよい。そこにおのづから日本国民の特色もあらはれてきて、人類文化に根ざした国民文化がつくられるのである。文化国家としての日本の国民は、このやうな態度で文化のためにはたらかねばならない。
三、これからの教育はどんな人間をつくるべきか
(一)文化を理想とする人間をつくること
かつて中国の留学生が日本の子供たちの遊びを見て、「日本では子供たちが戦争ごつこ・兵隊遊びを盛んにやつてゐるのに、親や教師たちは、なぜあれをやめさせないのだらう。」と質問したことがある。中国では「戦争ごつこ」は「どろぼうごつこ」よりさらにわるい遊びとされてゐるといふのである。「しかし日本人は戦争ごつこはわるい遊びとも思はないし、子供たちは兵隊になつて手がらを立てることを将来の理想と考へてゐるのである。」とわれわれは説明した。中国の留学生は、さうした考へ方こそ軍国主義的であるといふのである。さういはれてみれば、われわれがこれまでよいとしてきたことや、気がつかずにやつてゐたことが、実は国民を戦争へと導くやうなはたらきをしてゐたのである。子供たちの読物にも、歌にも、遊びにも、戦争に関係したものがどんなに多かつたであらう。これらを取り除いて青少年を全く新しい方向に進ませるのが平和国家の教育である。「大きくなつたら兵隊に」とか、「日本の国をもつと大きい国に」とかいふやうな理想を子供たちにもたせないで、むしろ学問をもつて、道徳をもつて、芸術をもつて、世の中のためにつくしたいといふ理想をもたせるのが、文化国家の教育である。科学者としてのキュリー夫人、医学者としての野口英世、織物機械の発明家としての豊田佐吉、電気王といはれるエヂソン、種痘の発見者ヂェンナーなどが、子供たちの新しい理想でなければならない。
(二)日常生活において文化への芽生えをのばすこと
しかもこのやうな偉人になることを、はじめから目あてにせよ、といふのではなく、むしろ毎日の学校生活や家庭生活において、学習や遊びの中で、文化的なはたらきの芽生えをのばすことが、教育の仕事である。青少年はその本性をすなほにあらわす場合には、真実なもの、美しいもの、尊いものを、何か他のものの手段としてではなく、それ自身を目的として、熱心に求める。例へば算数においては、児童は問題を解くことそのことに興味を感じ、計算を正しく速くやることそのことに満足をおぼえるのであつて、学業成績をよくしたいとか、教師や親にほめられたいと思つて算数を学習するのではない。図面では美しい色や形そのものを愛してそれに心を打ちこむのであつて、何か他の目的の手段として、いやいやながらそれを画くのではない。積木を積んだりくづしたり、おもちやを分解したり組合せたりするときには、ただそのこと自身にむちゆうになつて遊ぶのである。また青年はその本性をいつはらずにあらはす場合には、正義感や研究心を強くはたらかせる。自分や他人の行為について、不正なことは不正なるがゆゑにしりぞけ、世界や人生について真実を真実として求めるのである。児童や青年のかうした態度のうちに、科学や芸術や道徳の文化をつくり出すはたらきがふくまれてゐる。これをおさへずゆがめずにのばすことが教育である。平和的文化国家の教育は、格別かはつた教育を意味するのではなく、青少年の本性を重んじて、文化を求める心を育て、文化をつくり出す力を養ふことである。それは教育のほんとうの道を進むことにほかならない。
戦時中は教育もまた戦争の手段に使はれ、せまくかたよつて行はれた。青少年たちに、あれも学ばせたい、これも習はせたいと思ひながら、それらが戦争と直接に関係がないために、やむを得ずさしひかへねばならなかつた。人間が何を要求するかといふよりも、戦争が何を必要とするかといふ立場から、教育の目あても内容も方法もきめられた。今こそ人間の本性の要求するままに、広く豊かな文化を目ざして、教育の本道を進むことができるのである。
四、教育者はどこに希望と喜びとを見出すべきか
以上にわれわれは、新しい日本を建設するために、何を取り除き、何をのばすべきかを論じてきた。これらすべてを、教育者は先づ自から十分に理解し、さらに青少年にもわからせ実行させなければならない。
(一)物質的生活の改善
それにしても、もとから苦労が多くて、むくゐられることが少かつた教育者が、今日の状態において、いよいよ生活上の苦しみを経験しつつあることは同情にたへない。その上、戦災で焼かれた学校もあり、教具や文房具は不足し、教科書の供給すら不十分で、新しい方針や高い理想を示されても、その実現は大へんむづかしいであらう。この点に関しては当局としてもできるだけつとめてゐるが、一方また教育者自身も、教育会や教員組合などを健全に発達させて、自ら助けると共にたがひに助けあひ、この間題の解決につとめられることを、われわれは期待してゐるのである。
(二)教育の本道を進む喜び
しかし物質的方面の苦しみが多ければ多いほど、これを解決するほんとうの力は精神にあることを忘れてはならない。物質的条件の改善そのもののためにも、ゆきとどいた計画、強い忍耐、関係方面との協力といふやうな精神的なはたらきを必要とするのであるが、さらに物質上のなやみを精神上の希望や喜びによつてつぐなふといふことも、きはめて大切なことである。そして教育者はとくにこの点において恵まれた立場におかれてゐる。すでに述べたやうに軍国主義や極端な国家主義の国家においては、教育もまた戦争の手段とされたり、国家のためといふ口実のもとに指導者からかんしようされたりした。したがつてそこでは教育者が自由な意志をもつて教育の本道と信ずる方向に進むことができず、上からの命令に引きずられたり、外からのあつぱくにおされたりして、意気もおのづから振はない状態にあつた。平和的文化国家になつて教育がその本道にかへつたのであるから、教育者はだれにも束縛されることなく、自由にその本分に力をつくすことができる。これが今日の教育者の大きな喜びでなければならない。
(三)将来への希望
さらに眼を将来にそそぐとき、教育者はかがやかしい希望をもつことができる。「青少年をもつことは将来をもつことである。」といはれてゐる。国家としても世界全体としても、将来いかにあるべきかといふ理想は、今日の青少年の教育を通して実現するほかはないのである。世界歴史をつらぬく大きな動向にうながされて、祖国が新しく生まれかはらうとしてをり、それが間接に今日のなやみと混乱との一つの原因となつてゐるのであるが、その世界歴史の方向に照らして祖国の将来を見通し、これを現在の青少年の教育において実現するのが教育者のつとめである。教育者が先覚者でなければならぬわけもここに存する。
明治維新のとき、上野の森で官軍と幕府軍との戦ひが行はれてゐたその最中に、先覚者福沢諭吉は、おちついて青年学徒に新しい日本の行く手を教へてゐた。この人こそ、世界の大勢を知り、祖国の将来を察して、希望と喜びとをその胸にいだいてゐたのである。この先覚者の心持こそ今日の日本の教育者の心持でなければならない。
さらに教育精神のもはんと仰がれ、教育の聖者としてたたへられてゐるペスタロッチは、どんな一生を送つたであらうか。フランス革命のあらしがかれの祖国スイスにも荒れくるつて、親を失ひ家を焼かれたみなし児・貧児たちは、たよる力もなくちまたをさまよつてゐた。青年時代から革命運動に深い関心をいだいてゐたペスタロッチは、結局その一生がいの力をそれらあはれな子供たちの教育にそそいだのである。「こじきを人間らしく育てるために自分はこじきのやうに生活した。」といふのがかれ自身の告白である。今日の日本の教育者にこじきの生活をせよというのではないが、生活のなやみの中にも高い理想を仰ぎ、貴いつとめによつて自ら慰めたこのペスタロッチの精神こそは、永遠に教育者の力であり光でなければならない。今日の教育者がつちかひ育てる青少年の心の若芽が、五年、十年、三十年、の年月を経てりつぱにのびてゆくとき、軍国主義や極端な国家主義はあとかたもなくぬぐい去られ、人間性・人格・個性にふくまれるほんとうの力が、科学的な確かさと哲学的な広さと宗教的な深さとをもつて十分にはたらかされ、そこに民主主義の原理はあまねく行はれて、平和的文化国家が建設せられ、世界人類は永遠の平和と幸福とを楽しむであらう。かうした高く遠い理想を、単なるゆめに終らせないで、毎日の教育活動を通して、一歩々々確実に実行してゆくところ、そこに教育者の希望があり喜びがあるのである。
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